金鳳花のフール
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(72)母親と妹が手をつないで森を歩く
綾瀬とタキグチは二人の女から少し離れて立っている。突っ立っている男二人とくっつきあった女二人。生き物としての位置が最初から振り分けられている。雄は間抜けで、雌の添え物で、雌が舞台を暗転させる意思を示…
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(71)仮の宿は流線形のキャンピングカー
エミューの仮の宿はキャンピングカーだった。 森の入り口にアウトドア気分を醸して移動型住居は停まっている。 一九二〇年代の末、アメリカに登場した流線形のキャンピングカーを思わせる。当時…
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(70)突然、タキグチから電話が
脳髄は太陽と月と星、そして大地と水に占有され、空間的転位と時間的転位を常に繰り返している。つまり、綾瀬の脳内は森羅万象という不変かつ可変の宇宙の物質で出来ている。したがって頭蓋の中心で光が発信音に変…
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(69)自生樹のように荒々しい桑畑が
「それを描いて下さい」 Kが言った。 「何を」 「桑畑です」 「無理だ」 「どうして」 「他の画家がすでに描いてる」 綾瀬の返答にKは首をかしげた。 …
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(68)下腹部の隆起を過ぎたその先に
綾瀬が動こうとするとそれを止めようとする力が働く。 麦が綾瀬の脚に自分の脚を絡ませていた。 Tシャツにスウェットの短いパンツ。麦のパジャマだ。薄い生地を隔てて麦の肌が呼吸しているのが…
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(67)麦の体と合わさって一体の彫像
綾瀬はエミューの話をした。彼女に服を買ったこと、若い母親と子供のためのオアシス、安らいの家を訪ねたこと、バスに乗って遠足気分で別荘地へ行ったこと。そして、無人の建物に入り込みエミューと踊ったこと。 …
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(66)玉蜀黍の先端が化膿しているよ
麦は一人芝居の舞台に立った女優のようだった。 「赤黒く顔を変色させた長男役は農家の男に向かって言うの。『なるほど、よく育った玉蜀黍だ。しかし、この玉蜀黍はちょっとおかしいぞ。変形している。お前…
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(65)フェラチオしてあげたことある?
麦は劇団の稽古の帰りだった。綾瀬にその日の出来事を報告するうちに彼女は落ち着きを取り戻した。麦の話し振りでは端役がもらえたらしい。 「おめでとう。女優への第一歩だね」 「そんな大層なもの…
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(64)部屋の前で麦が居眠り
綾瀬はピカソやゴッホやゴーガンが彼と同じ境遇で水子の郷の蟻塚のようなアトリエで画布に向かっている姿を夢想してみた。綾瀬は混乱した。西洋の人々と仏教徒の考える黄泉の世界には差異がある。道徳的、宗教的宇…
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(63)バビルサの牙を持つ犬は消えた
声が風に流れて来た。綾瀬が振り向くとクルシマが手を振っているのが見えた。 正面玄関の前に立っているクルシマの姿は遠くにあった。 綾瀬は自分が建物から離れた草原の中ほどまで来ていること…
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(62)三晩のヴァギナの上の戦場体験
「インディアンが雨乞いの儀式のときに使うお面みたいですね」 綾瀬は女から離れながらその台詞を口にしていたはずだ。女の声が追いかけて来たが綾瀬はかまわず足を速めた。 「作者はキイルディルっ…
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(61)渚の光景はかつて眺めた絵画
クルシマは母親を抱えて彼女の寝返りの手助けをした。 綾瀬は部屋を出ることにした。クルシマには母親と二人だけの時間が必要だろう。 建物の外は草の絨緞だ。無数の短いグリーンの指が艶めかし…
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(60)精神の中枢を支える祈祷師が警告
クルシマは口を「へ」の字に結んだ。策略を使った自分に照れるように。 「工人や操縦士はぼくの望みを聞いてくれた。ぼくは公的機関の監視を逃れて誰に知られることもなく幽明境を行き来できるようになった…
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(59)若き生態学者の母が微笑む
ノックの音がした。ドアが開く。初老の男が入って来た。彼は衣類をつめた籠を抱えていた。 「洗濯物のお届けです」 男は温厚な表情で二人に会釈した。彼は部屋に備え付けの収納スペースに洗濯した…
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(58)母はぼくを産むことを断念し実家に
クルシマの父親は二流大学の講師で、祖母から見れば身分の劣る存在であった。安物の男は娘に近寄るべきではないと露骨に罵倒した。綾瀬はそのとき祖母の夫、祖父はどうしていたのか気になったが、祖父も妻には頭の…
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(57)彼女はぼくの根源だから
クルシマはベッドと洋服箪笥の間に隠すようにして置いてある小さな三脚椅子を運んで来た。 彼はいかにもこの部屋の勝手を知っている風だった。先ほど女の職員が老女にクルシマの名前を伝えたときの様子と…
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(56)自然と人間の結界のような木造建築
綾瀬の隣の水子は話をするのも馬鹿馬鹿しくなったのか、腕組みをして黙り込んでしまった。 客の機嫌を察知した運転手も首をすくめてハンドルに集中する。 草原と呼んでいい広い緑の敷地に…
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(55)バカラ特注のガラスの木魚を自慢
綾瀬はちょっと笑い、それから視線を漂わせた。 「生命が地球上に誕生して何十億年になるのかな。宇宙の秩序を仕切ってきた大きな力が気まぐれを起こしたのかもしれない。壮大で荘厳な向こう見ずな振る舞い…
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(54)水子は嗅覚がとても敏感なんだ
「君は酒井エミューの息子だね。冤罪で二十八年間獄中にいた」 男の言葉に綾瀬は不意を突かれた。鉄塔の上のエミューが視界に舞い戻る。 「何でもご存知なんですね」 「別に国家機密という類…
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(53)タクシーの窓から綾瀬を手招き
敏そうな癖の強い顔つきに見覚えがあった。水子の村の祭りの一場面が蘇る。男が階段に立って演説していた。大勢の聴衆が彼を取り囲んでいた。強い言葉と動作で何事かを訴える男を見て綾瀬は水子の村にも政治家志望…