残り香
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(18)心の底で待ち望んでいた言葉が
仙薫堂の伽羅と秘伝書がもう丹波屋から狙われぬよう、所有者を移してしまうという策は、梅里が講じてくれたものである。 この相談をした際、梅里は伽羅を百両で買い取るとした上で、仙薫堂の店をこの先ど…
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(17)小石川の大名屋敷といえぱ
それから数日後、元禄七年の大晦日を明日に控えた日のこと。 仙薫堂に丹波屋の千之助が招きに応じてやって来た。香四郎とおみつ、泰助の三人で対面する。 「お久しぶりです」 慇懃無礼な…
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(16)春翠はまさに妻の残り香
「して、『棋』とやらの正体は何だったのかね」 梅里が香四郎とおみつを交互に見やりながら問う。香四郎がおみつから話すようにと目配せしてきたので、おみつは居住まいを正して口を開いた。 「答え…
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(15)ゆっくりと目を開け「ああ、これだ」
十二月二十日は、梅里が仙薫堂に来る約束の日だ。春も近いこの日、朝から雨が降っていた。外出には生憎の空模様だが、練り香を薫くにはちょうどよい。雨の日は香りが強く感じられるのだ。 乾燥させる線香…
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(14)この手は練り香を作る手です
(四) やがて、暦は師走を迎えた。梅里の妻が残した書き置きの香料とその分量については、ほぼ完成に近いところまで仕上がっている。香料のつなぎに使った材料は、蜂蜜ではなく甘葛と判明した。いまだに分…
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(13)黒方の奥深い香りが客間を埋める
おみつは炭を沈めた灰の近くに、黒方の練り香をそっと埋めると、泰助と一緒に客間へ引き返した。 「お待たせいたしました」 目を閉じている梅里の前に、香炉を静かに置く。煙を出さずに匂い立つ黒…
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(12)「棋」を意味するのは、椋、夜交藤…
鶯と名乗る上品な老女が再び仙薫堂に現れたのは、暦が十一月に変わってからであった。「知り合いから聞いた話ですが」と断った後、 「椋の木が考えられる、とのことでした」 と、教えてくれた。漢…
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(11)鶯とでも呼んでもらおうかしら
翌日さっそく、おみつは「棋」が薬草か薬木の名前なのではないかと、父の香四郎に話してみた。 「確かに。だが、香料に用いない薬草や薬木のことはよく分からんな」 と、父は残念そうに言う。 …
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(10)香りの質は捏ね具合で決まる
(三) ──伽羅と秘伝書のことは心配するな。丹波屋にしてやられるような真似はしない。お前は春翠の再現に専念しろ。 父の香四郎からそう言われ、おみつはうなずいた。 梅里の妻の命日…
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(9)仙薫堂を畳んでもいいのですか
千之助が仙薫堂を出ていく際、借金の問題はすべて片が付いたはずだと言っても、千之助はせせら笑った。 「この手形は当時、表に出さなかっただけでね。決して効力がないわけじゃない」 千之助の言…
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(8)伽羅の買い手は旗本松永家当主
やがて、菊の節句も終わった頃、ようやく伽羅の買い手が見つかった。六番町に屋敷のある旗本松永家の当主で、まずは現物を確かめたいという。そこで、おみつと泰助がそろって松永家へ出向くことになった。 …
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(7)泰助と仕事ができる境遇に喜び
梅里は最後まで自分の素性については明かさなかった。香の再現に百両支払うと言う老人がいったい何者なのか。気になりはしたものの、それ以上におみつは香を再現するという話に心を奪われていた。職人上がりの父、…
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(6)練り香「春翠」を作ってもらいたい
(二) 香を商う仙薫堂には、代々伝えられてきた品が二つある。一つは、沈香の中でも特に貴重な伽羅の香木で、もう一つは、仙薫堂独自の練り香の作り方を記した秘伝書だ。店を畳むに当たり、香四郎は伽羅の…
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(5)侍従を薫く度に泰助が恋しく
泰助がゆっくりと近付いてくる。それぞれの持つ行灯の火が互いの姿をぼんやりと浮かび上がらせた。 泰助の表情がいつになく揺れていることに気づき、返事を先延ばしにしてきたことを、おみつは申し訳なく…
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(4)目を閉じ、薫いた香りを聞く
仙薫堂の女たちに受け継がれてきた女香は、「女仙」という銘の沈香をほんの少しだけ混ぜる。多くの削り跡のある女仙の香木も、おみつは母から譲られていた。 「どういうわけか、これを混ぜると、香りにこく…
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(3)梅花はその名の通り春の香
父の香四郎から仙薫堂を畳むと聞かされて二日が過ぎた。おみつは父の世話をしながら、昼は店番をするという、いつも通りの暮らしを送っている。だが、内心は落ち着かず、地に足がつかないような心もとなさをずっと…
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(2)蓮の花を髣髴とさせる荷葉の香り
「お父つぁん、失礼します」 おみつが部屋へ入った時、病身の父、香四郎は横になっていた。すぐに庄吉が店を去る話をするのかと思いきや、父は「荷葉を薫いてくれるか」と静かに告げるのみだった。 …
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(1)練り香の奥ゆかしい香りが漂う
(一) 青磁の香炉と香箸、炭に練り香。香を薫く用意が調ったのを確かめ、おみつは火を熾した。 黒い炭のかけらにともった火は控えめだが、美しい橙色の光を放つ。夜空に輝く一つ星のように、ある…