患者さんの死に号泣 おかずクラブ・オカリナの看護師時代
何もできず、涙が止まらなかった
ただ、高校3年生のときに、准看護師の資格は持っていたので、内定をもらっていた東京の病院で准看護師として雇ってもらいました。翌年の国家試験に向けて、働きながら予備校の講習を受けたり、先に受かった友人のノートを借りたりして勉強です。試験の1カ月前には休みをもらって、部屋にこもりました。2度目の試験で無事に合格し、その後、同じ病院で3年間働きました。
4年間働いていた東京の病院は、路上生活の患者や入れ墨が入っている患者もいました。印象的だったのはトラの入れ墨の患者さん。看護師になって1年目に出会いました。トラの目が片目だけしか入ってなくて、どうしてか聞いたら、「怖くなっちゃって」って。新人でしたから、治療のサポートは何もできませんでした。
ただ、コミュニケーションは取っていたので、彼が亡くなった後、すごく泣いてしまって。何もできなかったという思いもあって、涙が止まらなかった。大部屋だったのですが、人目もはばからずに。先輩からは「こんなところで泣いちゃダメ。他の人が不安になるでしょう」とたしなめられました。
患者さんたちは、お花の絵や手紙を書いてくれたりしました。今は元気になられたのか、あるいは亡くなっているかもしれません。気持ちのこもったものだから、こういう品々は捨てられないですね。
准看護師として1年、看護師として3年働いて、奨学金の返済が免除されたところで、退職しました。働いているときに吉本興業の養成所の入学金40万円と、当面の生活費を貯金していました。この間、日々の仕事に一生懸命でしたから、芸人になるためにネタ作りとか、何かしたわけではありません。だけど、ずっと芸人になるという夢は変わらなかったですね。
養成所に入ったことは両親に言いませんでした。反対されると思ったので、しばらくは「飲食店で働いている」と。実際、アルバイトしていたのでウソではないんですが。辞めて1年後くらいに帰ったときに話しました。
それからはずっと心配していました。デビュー後も売れない時期がありましたから。それにテレビに出始めても宮崎はチャンネル数が少ないので、地元では放送されていなくて。全国ネットに映れるようになって、ようやく安心したようです。看護師試験でも苦労しましたから、ここまで諦めずにこられたんだと思います。