脚本家ジェームス三木さん 旧満州時代の写真はたったの1枚
脚本家、小説家、エッセイスト……、作家になる前は歌手でもあったジェームス三木さん。そのルーツを初公開!
この写真は、僕が国民学校(小学校)入学直前の1941(昭和16)年に旧満州国の奉天市内(現瀋陽市)で撮った山下家一族の記念写真です。
僕の本名は山下清泉。35(昭和10)年に国民学校の教師だった父母の間に現地で生まれた長男です。きょうだいは5人いたんだけど、次男、三男は幼くして亡くなり、四男は敗戦直前の45(昭和20)年5月生まれ。5番目は唯一の女の子で日本に引き揚げてから生まれたものの、食糧事情の悪さなどで幼児の時に亡くなっています。四男は8年前に亡くなったから、今やきょうだいで生き残っているのは僕だけになりました。
当時の写真はこれと他にもう1枚しかありません。現地でもっと写真は撮ってるはずだけど、敗戦後の引き揚げの際に全部捨てたんです。途中でソ連兵(当時)や中国共産党の八路軍(当時)に写真が見つかり、トラブルに巻き込まれるのを防ぐためだったと思う。だから、これは今となっては僕のルーツがわかる大切な写真です。
■関東軍や高級官僚はいち早く逃走
当時の奉天市は満州国の主要都市で、日本人が大勢住んでいました。もともとは鹿児島出身の祖父が大正時代に奉天に行きましてね。奉天一中の教師をした後、手広く商売を始めて成功したんです。だから、かなり裕福で自宅は奉天の中心部にある大邸宅。応接室にはピアノがドンとあった。家族は祖父所有のアパート暮らしでした。親戚には満州医大を卒業後に関東軍の軍医とか、朝鮮の京城帝大を出て教職の道へ進んだり、叔母たちも地元の高等女学校を卒業。いわゆるエリートの一族で、総勢30人ほどが奉天とその周辺に住んでいました。そんな環境なので「10代で特攻兵になり日本のために散華する」のが理想的な生き方と信じる軍国少年に育ちました。ソ連が8月9日に満州に攻めてきても「関東軍が守ってくれる」「神州不滅、負けるはずがない」と周囲の大人たちが言う言葉を疑いませんでした。
ところが、8月15日に日本は降伏し、頼みの綱の関東軍や高級官僚は僕ら日本人を見捨てて、我先に自分たちとその家族だけ先に帰国したんだから酷い話ですよ。その日から生活は一変。みんながみんなじゃないけど、中国の人たちは手のひらを返して日本人に暴行したり物を強奪したり。それまで植民地にされていた鬱憤晴らしをしたんだろうね。
8月20日前後にはソ連兵がやってきて、さらに危険になった。母はもちろん女性たちは男に変装するため坊主頭にしてたし、ソ連兵が自宅に押し入り、床下に身を潜めたことが何度もありました。
そんなある日、祖父が一族を集めてこう言ったんです。「ワシの一存でこんな所(満州)へ皆を連れてきて本当に申し訳なかった。これから苦労をかけるだろうが、許してくれ」。無念だったと思いますよ。帰国するには両手に持てるだけの家財道具が精いっぱい。長年かけて築き上げてきたものをすべて捨てなければならなかったわけですから。