ラサール石井が語る「杉先生」とストリップ劇場での日々
バラエティーから声優、俳優、演出家としてマルチに活躍するラサール石井さん(62)。秘蔵写真は「今の自分があるのはこの時の修業があるから」という、ストリップ劇場時代の一枚。
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これは渋谷に今もあるストリップ劇場「道頓堀劇場」の40年前の楽屋です。結構広く見えるから向かいの古着屋の2階に楽屋が移った頃かな。最初の楽屋は2畳しかなくて、先生の杉兵助(96年没)が寝そべってるそばで3人で小さくなって座ってました。僕らは師匠とは呼ばず「先生」と呼んでいました。みんなからも「杉先生」って呼ばれてましたね。
演者への夢が捨てきれず
さて、なぜストリップ劇場に行ったかというと……。
74年に早稲田大学に入り、ミュージカル研究会で作・演出をやりながらOBの紹介で、放送作家もやっていました。でも、演者への夢が捨て切れず、翌年、喜劇の劇団「テアトル・エコー」の養成所に入った。そこで出会ったのが渡辺正行と小宮孝泰。彼らは1期後輩で明大落語研究会出身。面白そうな連中だからというので、声をかけて3人で組んだのが「コント赤信号」です。大学4年の時に研究生になったけど、芸人に魅力を感じて退団。ちょうど先輩のコント太平洋さんの紹介で、渋谷の道頓堀劇場に誘われ、先生に弟子入りしたんです。
先生は歯が2本しかないし、自分で「戸籍も保険証もない」と平然としてるハチャメチャな人。どう見ても70歳以上だろうと思っていたら、60歳だと言う。ある日、先生が胃けいれんを起こした。さすがに病院に行くのに保険証がないと困るので、劇団の後輩の中村有志に頼んだら、先生の生まれたという区の役所に行って戸籍を見つけてきた。そしたらなんと63歳。
若い頃は浅草東洋館で座長を務めていたとかでビートたけしさんが「先生のギャグを使わせてもらいました」と挨拶に来たり、後に萩本欽一さんから「先生の弟子なら月謝1億円分の価値はある」などと言われました。萩本さんがまだ下積みの頃、先生は雲の上の人だったとか。そんなこと知らないから弟子入りして少ししたら、緊張感がなくなり、着替える時に寝ている先生の顔にハンガー落っことして怒られたりしてました。
■テレビに出始めても劇場で下働き
当時、月給が12万5000円。結婚して吉祥寺の1DKのアパートに住んでたけど、お金を使う暇がないし、十分でした。何せ1年365日、暮れも正月もなく、1日も休みなしで劇場に出ていましたから。
ステージは1日4回15分くらい。ステージ袖からコード引っ張って電動ドリルで先生に脅され途中でコンセントが抜けてしまうギャグとか。ある時、自分のジーパンにドリルを当ててボロボロにしたり、先生もムチャやります。
暴走族のコントが受けて「花王名人劇場」でテレビデビューしたのが80年。それでも1年くらいはストリップ劇場に出ていましたね。
共同募金のコントをやったら、お客さんが本当にお金を入れてくれて8000円近く貯まったので、先生に相談したら炊飯器を買えって。それまでは楽屋に出前を頼む時、いつも「カキフライ1つにライス4つ」。先生がカキフライをわざと残してくれるので、それを僕らがおかずにして食べるというパターン。炊飯器を買ってからは米は先生が買い、おかずは1人100円ずつ出し合って僕が買い出し。小宮が米をとぎ、リーダーが電熱器で料理する。昼飯だけでしたが助かりました。
芸能界の底辺ともいうべき世界でしたが、いつかテレビに出るんだという夢があったから毎日が楽しかった。こうして今、自分がいられるのはストリップ劇場で学んだことが大きいと思います。
(取材・文=山田勝仁)