親父の背中を追いかけたおかげで山田裕貴は強くなれた
だから、いわゆる「イケメン俳優」がたどるスカウトやコンテスト優勝などといった華々しいデビューではない。俳優養成所に通い、ファストフード店や居酒屋でバイトをしながら、エキストラなどをして演技の勉強をしていった。上京=仕事を取りに行くという考え方だったから、「ダメだったら帰ろう」などという甘い考えは一切なかったという。
「その大きな理由は父親」だと山田は言う。
「父は18歳でプロになって仕事をしていましたから、その時点で僕は負けている。常に負けを親という近い存在から与えられている気がしていました」(同前)
そうして掴んだのが、2011年の「海賊戦隊ゴーカイジャー」(テレビ朝日)のゴーカイブルー役だった。いわゆる若手俳優の出世コースだ。だが、「嬉しいけどこれが終わったらどうなるんだという、不安の方が」強く「ひたすらもがいてきた感じ」(扶桑社「Numéro TOKYO」19年8月21日)だったそう。その泥くささが山田の俳優としての強さにつながっているのだろう。
18年に山田裕貴はナゴヤドームのマウンドに立った。始球式を行うためだ。その背番号は父親が中日時代につけていた「30」。登板後、「野球をあきらめて俳優を目指してからの夢が、いつか始球式に登板することでした」と涙ながらに語り山田は続けた。
「親父の背中を追いかけていた頃を思い出しました」(イード「cinemacafe.net」18年8月10日)