谷口源太郎氏 東京大会で“五輪は不要”の声が広がればいい
分散開催を認めているIOCにとってマラソン札幌移転は当然
――分散開催といえば、東京五輪のマラソン・競歩が突如、札幌開催に変更されました。
IOCにとって大事なのは、五輪の持続可能性。それは札幌開催についても言えることです。9月ドーハで行われた世界陸上の女子マラソンと競歩では、酷暑が原因で棄権者が続出しました。かなりショッキングな光景でしたね。バッハ会長としては暑さが懸念される東京五輪の舞台で、ドーハの二の舞いは絶対に避けたい。つまり、五輪の持続性が脅かされるような要素は何としても排除したい。すでに分散開催を認めている彼らにとっては札幌に移転しようが知ったことではないんですよ。
――IOCには東京開催を認めた責任もあります。
招致委員会は東京の夏がアスリートにとって絶好の時期だとうそぶきましたが、こういう鈍感さが五輪を巡る問題の元凶です。五輪を支える欧米の巨大テレビがプロスポーツの始まる時期を外せと要求した結果、7、8月の開催という枠が決められてしまった。要するに、競技のコンディションやアスリートの健康など誰も考えていないのです。
■選手は「国威発揚」の道具としかみなされていない
――都や大会組織委員会が口にする「アスリートファースト」という言葉も空々しいです。
アスリートファーストが何を意味するのか全く分かりません。幻想でしかないと思います。日本では五輪やW杯などの国際大会の際、外国人選手がいないのではと錯覚してしまうくらい、「がんばれニッポン」一色です。日の丸をつけた選手が国際的な評価の最も高い五輪で日の丸を掲げるというのは、「国威発揚」という観点で最高の効果がある。つまり、選手は国威発揚のための道具としかみなされていないのです。実際、東京五輪でJOCが掲げる目標は「金メダル30個」「メダル総数世界第3位以内」ですからね。組織委の森喜朗会長が「滅私奉公」をスポーツマインドだと言っているくらいですから、国家総動員の雰囲気がより徹底されていくでしょう。
――メディアも日本人選手が何個メダルを取ったか大騒ぎしますね。
メダルを取る可能性がある選手には国や企業からお金が投入されます。メダルを取れない選手は国威発揚の道具としても、商品価値としても、あまり意味がないというか、選手自体の自主性や主体性は尊重されないわけです。IOCに「選手委員会」があって選手の意見を聞くという建前はある。しかし、エリートしか集まらない世界なので、選手の声に真摯に耳を傾けるかというと、そうじゃない。五輪の商業主義化が進み、大会が見せ物になっていくのも当然です。勝利至上主義や見せ物化はドーピング問題にもつながっています。
■商業主義や見せ物化でスポーツは貧困に
――見せ物に成り下がっている五輪から若者がどんどん離れています。
若い人に大会を支持してもらわないと困るから、彼らを引きつけるために、スケボーやサーフィンやスポーツクライミングが五輪種目として採用されたのです。競技として採用されると、いろんな規約やルールが作られてしまう。遊びとしての豊かさや創造力、オリジナリティーが失われてしまうとは誰も思わないのでしょうね。五輪の若者への迎合が行きつく先は、テレビゲームの腕を競う「eスポーツ」の採用でしょう。
――そこまでして五輪を続ける意味があるのか疑問に思えてきます。
商業主義や見せ物化が進んだ五輪を続けても、負のスパイラルが深刻になるだけです。各競技の国際的な連盟や競技団体を中心に、国際大会が五輪の予選会になっている現状を壊すことができるのかどうか。東京五輪を機に「五輪は不要だ」との声が広がればいいと思います。メダル候補選手を集めているだけでは、スポーツの土壌が貧困になってしまいます。
――東京五輪こそが五輪のあり方を見直すキッカケにならなければいけないと。
来年3月に福島でスタートする聖火リレーから機運醸成に向けたプランが着々と実行されていく一方、東京五輪の抱える欺瞞性がより露骨に表れてくると思います。福島では「復興五輪」という見せかけの復興を演出するために、元住民の帰還や公的支援の打ち切りが行われています。福島原発事故で発令された「原子力緊急事態宣言」が今も解除されていない状況にもかかわらずです。日本はもう一度、人とスポーツとの関係性は何かを考え、アジア諸国と連携して、スポーツを豊かにするための主導権を握る役割を果たすべきではないでしょうか。
(聞き手=高月太樹/日刊ゲンダイ)
※インタビューは【動画】でもご覧いただけます。
▽たにぐち・げんたろう 1938年、鳥取市生まれ。講談社、文芸春秋の週刊誌記者を経て、85年からフリーランスのスポーツジャーナリスト。「日の丸とオリンピック」(文藝春秋)など著書多数。