仙台育英V 東北高校野球「艱難辛苦」の内幕
-
外様から地元へ…若生正広が切り開いた、宮城の野球の「新たな可能性」
東北高から仙台育英へ──衝撃の移籍を決行した竹田利秋は新天地でも指導力を発揮した。 直後の1986年夏に早々に甲子園への挨拶を済ませ、95年の退任まで夏6回、春4回……甲子園の宿舎では常に電…
-
東北の「ええべ」には理由がある 全国区になれば郷里を出て二度と戻らない
東北高・竹田利秋監督が初めて甲子園出場を果たした1968年は、第50回記念大会だった。 開会式に皇太子夫妻を招き、抽選会が初めてフェスティバルホールで公開され、記念切手が出され、平均4万60…
-
宮城で戦った紀州人・竹田利秋の気骨…組み合わせ抽選会の光景で全国を意識
「ちいさい秋みつけた」で知られる作詞家で、作家・佐藤愛子の兄、サトウハチローは野球狂だった。何より父の作家・佐藤紅緑が熱心で、一家は阪神電鉄が文化村として開発した鳴尾浜に住んでいた。 そこに甲…
-
第1回大会から何度も関所を跨ぎかけた理由は「地域差でなく階級差」
この夏、宮城代表の仙台育英が甲子園を制し、東北勢としては初めて優勝旗の白河越えを果たした。白河の関は古代からの奥州の入り口である。 「皆が白河の関、関って言うもんだから、行ってみたんだっちゃ。…