東北の「ええべ」には理由がある 全国区になれば郷里を出て二度と戻らない
東北高・竹田利秋監督が初めて甲子園出場を果たした1968年は、第50回記念大会だった。
開会式に皇太子夫妻を招き、抽選会が初めてフェスティバルホールで公開され、記念切手が出され、平均4万6000人の観衆がスタンドを埋めた。
選手たちがオドオドしても仕方ない、そんな空気でもあったのだ。
竹田の東北高時代はいざなぎ景気の真っただ中で、巨人V9の折り返し地点だ。甲子園は熱い視線を浴び、球児の技術が上がり、好ゲームが展開された。
■郷土を出て戻らない
その年の決勝で興国に敗れたのは静岡商の左腕・新浦寿夫。翌69年は青森・三沢の太田幸司の熱投で沸き、70年には三池工を優勝させた原貢が東海大相模で全国制覇し、71年は磐城の田村隆寿が準優勝……青年監督の心をかきむしるように甲子園は沸騰し、それなのに周囲は冷めていた。
「東北の人は、すぐ“ええべ”と言う。そんなにしないでもいい。そこまでやらなくともいい。それが歯がゆくてね」