阪神からの戦力外通告「全内幕」…四方八方から《辞めた方が身のためや》と現役続行を反対された

2009年10月、阪神から戦力外通告を受けた。残された選択肢は引退するか、他球団へ移籍するかの2つだけである。
球団から最初に打診があったのは、2カ月前の8月ごろ。球団事務所に呼ばれ、「そろそろ引退してはどうか? 君はウチの功労者。盛大な引退試合を用意しているから」と勧められた。プロ野球選手を長くやっていれば、来季の構想に入っていないことくらい、なんとなく分かる。覚悟はできていたため、特に驚きはなかったが、球団はすでに引退を前提に話を進めているようだった。
プロ野球歴代3位の147打点で打点王を獲得した翌年の2006年くらいから、故障もあって成績が低迷していたから、当然といえば当然だ。阪神最終年となった09年は、わずか23試合の出場で打率.133。当時の僕は35歳。年齢的にも引退の適齢期である。
その場では「考えさせてください」と答えたものの、まだ不完全燃焼の気持ちが強く、心の中では「絶対に引退はしない」と決めていた。
2月のキャンプの時から「今岡は今年で引退だろう」という空気がチーム内に漂っていた。こうなると、人間はどこか空気を読みながら、遠慮をしつつプレーをしてしまうものである。僕はこのことを後悔していた。
球団とは2度ほど話し合いの場を持ち、10月に「僕は辞めません。現役を続行したいので、トライアウトを受けます」と伝えると、正式に自由契約となった。
僕がトライアウトを受けると知り、多くの人は「何で?」と思ったようだ。全盛期と比べれば明らかに力は落ちていた。人気球団の阪神で現役を終えれば、コーチや解説者といったセカンドキャリアの仕事に就きやすい。阪神の主力選手は阪神で引退するべきだ。まっすぐ敷かれたレールに沿って進んでいくことがエリートとされるが、敷かれたレールを歩むのは嫌だった。勇気が必要だが、レールから外れることで見えることもある。求められる選手なら道は開けるのではないかと思った。
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