外様から地元へ…若生正広が切り開いた、宮城の野球の「新たな可能性」
東北高から仙台育英へ──衝撃の移籍を決行した竹田利秋は新天地でも指導力を発揮した。
直後の1986年夏に早々に甲子園への挨拶を済ませ、95年の退任まで夏6回、春4回……甲子園の宿舎では常に電話を手元に置いていた。中学野球選手権地方大会の経過を追い、有望選手をチェックするためだ。
第60回大会から全都道府県出場になり、それが野球留学への呼び水になっていた。本場・和歌山出身の意地だろう、竹田は関西には目を向けず、地元宮城や東北6県の有望選手に声をかけた。マスコミに加え、指導者たちにも煙たがられたが、それは確信犯だ。嫌われ嫌われて強くなる……異邦人のかたくなな姿を貫き89年夏を迎えた。
青森から来た大越基がガッツむき出しの真っ向勝負で、準々決勝で元木大介の上宮、準決勝では尽誠学園・宮地克彦との投げ合いを制し、熱投は帝京との決勝も続いた。吉岡雄二と0-0の果てに延長で力尽きた試合後、竹田はグラウンド上ではきはき取材を受けていた。閉会式が始まり、ベンチ前に整列すると突如、その場にしゃがみこみ泣き崩れた。「白河の関」を最も心に刻んだ男、そう思い返す。