「ウンコはどこから来て、どこへ行くのか」湯澤規子氏
「ウンコは汚物に生まれるのではない、汚物になるのだ」
プロローグのこの一節に、本書のエッセンスが凝縮されている。生きるために重要で身近な存在のはずが、社会から排除されつつある私たちのウンコ。その驚きの歴史を、経済、文化、地理の視点からひもとく一冊だ。
「日本は人糞を肥料として使ってきた世界でも珍しい国で、最近では『江戸はエコな都市だった』と言われたりもしますが、そもそも、江戸でウンコはビッグビジネスだったんですよ。人だけを平地に密集させた江戸という都市には、肥料にできる海藻や落ち葉みたいな有機物がなくて、代わりにし尿はたくさん出ました。だからウンコは『黄金』と呼ばれて取引されて、市場規模がとても大きかったわけです。今の価値観だけで『昔はエコでよかった』というと、見落としてしまうことがたくさんあります」
シーボルトや宣教師ら、江戸時代に日本を訪れた西欧の人々による人糞についての記録が、本書には列挙されている。「危険物」「悪臭」といった嫌悪の言葉と並んで、農業技術への感嘆もあり興味深い。
「最近、コロナ対策などで『日本は伝統的に衛生的な国だから』という声も多いですが、150年前には西欧人が驚愕するほどに『不衛生』だったんです。近代以降も、下水道事業とせめぎ合いながら下肥の文化は戦後まで続いています」
本書によれば、戦後GHQは、日比谷の第一生命ビルを接収し指揮を執りはじめてからわずか5日後に「公衆衛生に関する覚書」を出す。これにより、下肥を使わない野菜は「清浄野菜」として区別されるようになる。
「日本はそもそも野菜には火を通して食べていたので、寄生虫なんかも問題なかったんですね。ところが生野菜をサラダで食べる文化のアメリカ人からすれば、人糞で育てた野菜なんて不衛生で耐えがたいわけです。でも生野菜は食べたい。こうやって衛生の概念と食文化が密接につながっていることが、ウンコから見えてきます」
こうした日本のウンコの歴史に加え、現代ケニアの「フライング・トイレット」、沖縄の伝統的豚便所「フール」、進化するトイレ事情など、ウンコにまつわる古今東西の多彩な事象を紹介する。ユニークなのは、何で尻を拭くかという問題を扱った第7章に見開きで掲載の「長野県尻拭き地図」だ。
「7章は、緊急事態宣言下の4月に追加しました。今や日本だけでなく世界中で、トイレットペーパーがないことが絶望や恐慌につながるんですよね。でも長野のこの地域だけでも、木片だったり葉っぱだったり、いろんなもので拭いていたんです。こういう多様性は、あれがダメでもこっちがあるという安心に、もっと言えば、生きる技術につながります。それが世界的にトイレットペーパーに統一されつつあるのは、生き方の多様性を失う危険につながると感じますね」
エピローグでは、祖父の死をきっかけに潔癖症に苦しんだ著者自身の経験も記されている。
「コロナ禍で、戦後からずっと続く衛生重視、清潔至上主義の風潮がより強まっていて、かつての私のような苦しみを抱える人も増えるんじゃないでしょうか。生きるって本来は清濁入り混じっているものです。何かを汚物として完璧に排除してしまうことの危うさや、それによって見えなくなるものがあるという問題提起に、この本がなればと思っています」
(筑摩書房 840円+税)
▽ゆざわ・のりこ 1974年、大阪府生まれ。法政大学人間環境学部教授。筑波大学大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。著書に「胃袋の近代―食と人びとの日常史」「7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史」などがある。