「タブレット純のムードコーラス聖地純礼」タブレット純氏
「ムードコーラス」という音楽ジャンルをご存じだろうか。演歌でもなく歌謡曲でもなく、ムードコーラス。
本書は昭和時代にブームを巻き起こしながら、忘れられた音楽ジャンルであるムードコーラスにスポットを当てた初めての本。ムードコーラスの元祖「和田弘とマヒナスターズ」の元メンバーである著者が、ムードコーラスの先人と聖地を訪ね、その知られざる足跡をつづった。
「ムード歌謡がブームになったのは昭和30年代からです。演歌が故郷の情景を歌ったものであるのに対し、東京の夜の世界やネオン、ナイトクラブ、当時の若者たちの恋愛事情を歌ったのが、“都会調歌謡”、後のムード歌謡なんですね。フランク永井、松尾和子、広い意味では石原裕次郎もムード歌謡のシンガーです。ムード歌謡といえば上司のカラオケの曲といったイメージかもしれませんが、本来はジャズ、ラテン、ハワイアンなど洋楽の要素と、日本的なテイストが合わさった日本独自の音楽形態。和洋折衷のミックスがムード歌謡、ひいてはムードコーラスの大きな魅力だと思いますね」
著者がムードコーラスに出合ったのは小学生の頃。ラジオで聴いたマヒナスターズの「泣きぼくろ」の七色のコーラスに魂を揺さぶられた。深海に浮かぶクラゲのような妖しさ漂う、大人の恋愛世界に魅せられ、以後、ムード歌謡にハマった。
「ムード歌謡はある種の口説き歌のような、男女の駆け引きの歌詞が特徴でもあるんです。たとえば『東京ナイト・クラブ』(昭和34年)では、男女の掛け合いで『なぜ泣くの 睫毛がぬれてる』『好きになったの もっと抱いて』と歌っていましたが、当時としてはかなり過激な詞ですよね。こんなふうに歌詞がセリフ調になっているのも、ムード歌謡の新しさの一つだったんです」
フランク永井らと同時代に活躍した「和田弘とマヒナスターズ」は、そのムード歌謡をコーラスで表現した元祖。以後、多くのグループがデビューした。本書では、マヒナスターズの松平直樹をはじめ、ロス・インディオスの棚橋静雄、殿さまキングスの宮路オサムら8人にインタビューしている。デビューの経緯や歌にまつわるエピソードからは、知られざる昭和の歌謡史、人間ドラマが立ち上ってくる。
「昔はキャバレーが主な活躍の場でしたから、みなさん口々に言うのは、ホステスが歌うようになったらヒットする、と。その過程も面白くて、30年代はわりと男目線の歌、女泣かせなモテる俺、的な歌詞が主流だったんですが、ロス・プリモスの『ラブユー東京』(昭和41年)から女性目線になっていくんです。か弱い女性、めそめそ泣いている女性が主役になって、それを男性が歌う。ロスプリのボーカルの方は『七色の虹が消えてしまったの』と歌うのがすごく恥ずかしかったと言ってました(笑い)。ムード歌謡の世界では女性はどんどん弱くなって、その女心を男性が歌うという構図が夜の世界の女性にウケた。結果、裏返るような声や、どんどん女っぽい歌い方になっていったんです。こうした要素を受け継いだのが、現在なら純烈さんですね」
ほかにも、クール・ファイブがメジャーになった陰ではナイトクラブ同士の戦争があったことや、戦後、東京駅にバンドマンのたまり場があり、日雇い労働のように呼ばれてバンドを組んだといった話や、また新宿のキャバレー「女王蜂」や「ゴールデン赤坂」なども登場し、諸兄には懐かしい限りだろう。
「ゲンダイ読者にお勧めしたいのは、三島敏夫の『泣かないで』ですね。彼の歌い方は裕次郎さんも参考にしたといわれていて、素朴な、照れのあるボーカルで、青春の悔いみたいなのが歌声に感じられるんですよ。後々のような女心を強調しない、ムード歌謡の良さが出ていると思いますね」
(山中企画 2000円+税)
▽タブレットじゅん 1974年、神奈川県出身。27歳のとき、ムード歌謡の老舗グループ「和田弘とマヒナスターズ」にボーカルとして加入、和田氏の逝去まで2年間在籍。ソロに転じた後、2011年、新ジャンル演芸「ムード歌謡漫談」でお笑い界に進出。著書に「タブレット純のGS聖地純礼」。