「人を動かすナラティブ」大治朋子氏
「人を動かすナラティブ」大治朋子著
「ナラティブ」という英語の表現がある。日本語では物語や語り、ストーリーなどのニュアンスを網羅する言葉だ。
「ナラティブには人を感動させる力がある一方、忌むべき方向へと引き込むこともあります。私がナラティブに関心を持ったのはエルサレム特派員時代。ユダヤ教指導者の家族らを殺害した大学生がSNSで発信したナラティブに若者たちがのめり込み、イスラエル全土でユダヤ人への模倣攻撃が起きた事件がきっかけでした」
人間の感情を揺さぶり、良くも悪くも人と社会を動かすナラティブ。本書では、ジャーナリストの著者が近年の事件や現象の背後に潜むナラティブの影響力を解き明かしている。
「誰かのナラティブに強い共感を覚えると、ナラティブ・トランスポーテーションという没入状態に陥ることがあります。すると、実話であるか否かを問わず物語の世界に深く入り込み、そのナラティブに沿った行動をとるようになります」
2022年5月、ニューヨーク州のスーパーで18歳の白人男性による銃乱射事件が発生。死傷者13人の大半が黒人だったという。アメリカでの銃乱射事件は珍しくないが、近年ではこの種の事件の多くが排外主義的なナラティブでつながっていると本書。多様性の潮流の中、特権階級にあった白人たちが抱える反感や不満は、被害者意識を増幅させるようなナラティブに刺激されやすい。白人富裕層がトランプ氏を熱狂的に支持するのも、被害者意識をあおるナラティブの力が働いていると考えれば納得だ。
「受け取り手の被害性を演出するようなナラティブには共感が集まりやすく、過激な排外的思考を育みやすくなります。実は、ナラティブとSNSを駆使することで、狙った集団の心に刺さるナラティブを拡散させ、世論操作を行うことはたやすい時代になっています」
本書の圧巻は第4章。著者はイギリスに拠点を置く軍事下請け業者の内部告発者に取材を敢行している。同社はトランプ氏が勝利した16年のアメリカ大統領選と、同年のイギリスによるEU離脱に関する世論工作に関与していた。
使われたのは、さながら情報兵器だ。同社は6000万人近いフェイスブックユーザーの投稿をアルゴリズムで分析し、心理学者がタイプ別に分類。それぞれの心に刺さりそうなナラティブを流して「いいね」やコメントの反応などをAIに学習させ、標的とする特定市民層の心理操作が可能なプログラムを開発していたのだ。
「海外だけの出来事ではなく、安倍晋三元首相銃撃事件や映画『ジョーカー』を真似た犯人による京王線乗客襲撃など、日本でも特定のナラティブにとりつかれたような事件が起きています。過激なナラティブに支配されやすいのは、被害者意識が強い、自己陶酔的、孤独、家族に問題を抱えがちな人、SNSでの活動が活発な人などが挙げられますが、年齢を問わず誰もが陥りやすいと考えた方がいいでしょう」
陰謀論も最強のナラティブであると本書。支配されないためには、生身の人間と関わって五感を鍛え、多くの書物を読むことで想像力の引き出しを増やすことだという。
現代人の生き方までも問う、今読まれるべき良書だ。 (毎日新聞出版 2200円)
▽大治朋子(おおじ・ともこ) 1965年生まれ。毎日新聞編集委員。社会部、ワシントン特派員、エルサレム特派員などを経て現職。著書に「勝てないアメリカ-『対テロ戦争』の日常」「歪んだ正義『普通の人』がなぜ過激化するのか」などがある。