「芝浦屠場千夜一夜」山脇史子氏
「芝浦屠場千夜一夜」山際史子著
品川駅からすぐ、再開発の高層ビルが立ち並ぶ芝浦にある食肉市場。1991年から98年までこの市場に魅せられて働いた経験を持つ著者は、4半世紀たった今、現場での経験を本にまとめた。
「なぜ今ごろ書いたのかとよく聞かれます。正直に言えば、書きたかったけれど書けなかった。屠場への偏見や差別があるなかで、働く人たちが本にされることに抵抗があるのを感じたこと、私自身の筆力が追いつかなかったことなどが理由です。けれど現場でお世話になった方が亡くなり、人間は記憶の入れ物で、亡くなると記憶も一緒に失われることを実感して。現場で見たものや伝えてもらったものを、今のうちに人に伝えなければいけないと思ったのです」
かつて参加したピースボートの中で「いま一番妥協しないで戦っているのは芝浦屠場の労働組合だ」という言葉を耳にし、気になって恐々見学を申し込んだ著者。ところが足を踏み入れた途端、現場に魅入られてしまう。1週間働かせてほしいと直談判したのだが、結局約束の期日を過ぎてもライターの仕事をしながら週数回定期的に通い、気づけば7年になっていた。
著者を受け入れてくれたのは、芝浦屠場労働組合創設時の中心人物。牛の内臓を扱う部門に見習として入った著者は、白衣の上下にゴム長靴、足首まである長い前掛けという作業着姿で、滑りやすい床を踏みしめながら作業場の工程を追い、ナイフの使い方からひとつひとつ覚えた。
大きな牛の体が解体され、部位ごとに分けられていく様子を最前列で一緒に見せてくれるかのように著者は鮮やかに描写していく。
「危険もあるし、ケガもしかねない。けれど働いている人の姿は穏やかで静かで。球が飛んでくるのを待つ野球選手のような、体が何か準備している感じというのでしょうか。働いている人たちが格好良くて、ずっと一緒に居たいと思いました」
著者は、そのボスから、かつて内臓業者が東京都職員削減の代用に「タダ働き」をさせられていた事実を聞く。彼は労働組合をつくって都と交渉するが、直接雇用関係になかったため、相手にされなかった。そこでタダ働きの背景にある差別問題を取り上げ、部落解放運動の支部を結成。最終的に希望者全員を都職員にすることに成功した。
さらに2022年、著者は改めて芝浦に取材に行き、今なお差別は残っていることを知る。しかし解体現場で働く女性職員は、著者に向かって「生き物を殺しているのではなく、食べ物を作っている、生かしているのだと思う。芝浦のこの場所は人が生きることの原点だ」と強く伝えたのだという。
「みんな誇りをもって働いているのに、悔しかったんだと思います。権利を奪われるような形で仕事をしていた人たちが、戦い抜いた場所があるということを知ってほしい。日々働く大人世代には、きっと彼らの姿に響くものがあるはずです」
本書では、著者自らが半生を振り返り自身の差別意識を点検する様子もつづる。
ルポのような、私小説のような、不思議な読後感が残る一冊だ。 (青月社 1650円)
▽山脇史子(やまわき・ふみこ)東京生まれ。フリーライター。日経ウーマン、日経流通新聞、リクルート、NTT出版などで記事を執筆。1991年から98年まで東京芝浦の食肉市場に通いながら、働く人の目線で取材。屠場の現在について改めて取材を始めている。