増田晶文(作家)
9月×日 小さな庭で躍起になって揚羽蝶を追い払う。20数年に梅を植えた。可憐な花から甘酸っぱい芳香を漂わせた白梅。それが虫害で枯れてしまった。泣く泣く梅を伐り、代わりに植えた柑橘。膝丈ほどの幼木が愛おしい。
それなのに、蝶は卵を産みつけようとふわふわ舞う。幼虫は若葉を食む。そうはせさじ、私は蝶を打ち散らす。だがこの図、傍目には蝶と戯れるオッサンと映っているのかも。「ファーブル昆虫記 誰も知らなかった楽しみ方」(草思社 3300円)は、伊地知英信が簡潔な文章で昆虫学者の足跡を記す。加えて海野和男の写真の美しさ。ページをめくるたび南仏の陽光が溢れ出す。ファーブルも、近所では虫に夢中の変人と思われていたそうだ。
10月×日 生き物の本や翻訳小説ばかり読んでいる。猫に鴉、蛇や猛禽、外来生物…出色は浅間茂著「クモの世界」(中央公論新社 1100円)。糸を吐く8本脚の狩人の生態を豊富な図版を交え詳細に。淡々と乾いた筆致がいい。この手の本に媚びた笑いは不要、本書で上質な講義を拝聴している錯覚に浸れた。世界のクモの餌の消費量がヒトの肉と魚のそれに匹敵すると知り、眼をパチクリさせる。
10月×日 歴史小説「楠木正成 河内熱風録」(草思社 3080円)を脱稿したのが3月、ぼちぼち次作の準備を。手は動かさないと鈍る。頭も刺激を与えねば錆びつく。何より財布が薄くなる。えらいこっちゃ、反省しつつもフェルディナント・フォン・シーラッハの短編集「刑罰」(東京創元社 792円)に手を伸ばす。
うまい日本酒をちびちびと愉しむように、1編ずつ味わう。軽やかな筆づかいのくせ味わいは濃淳、苦み渋みも効いている。まさに銘酒の趣。惜しみつつ最終章「友人」を読み終えた。
ふと机の隅、ジャムの空瓶をみやる。柑橘の葉についた芋虫を飼い始めたのだ。ヤツの眼玉模様も私をみつめているような。しばしの睨めっこ。根負けして創作ノートを開く。白いページを前にため息ばかりが漏れる。