「卓球王国・中国」をつくった日本人・荻村伊智朗の人間力
中学・高校と卓球部に入っていた私は、「卓球王国・中国」と言われると、少なからずムカつく。1950年代から60年代にかけて、「卓球王国」は日本だった。その象徴的人物が世界選手権で2度シングルスで優勝し、のちに国際卓球連盟の会長となった荻村伊智朗である。1932年生まれの荻村は、残念ながら94年に62歳で亡くなった。
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■周恩来は人民のスポーツとしてなぜ卓球を選んだのか
この荻村が中国の首相、周恩来に信頼され、中国を卓球王国にしたのである。49年に共産主義国家となった中国は貧しかった。自らも卓球が好きだった周は荻村に「力を貸してくれ」と頭を下げた。
そして、中国の女性に纏足という習慣があったことを知っているか、と尋ねる。荻村が頷くと、周はこう続けた。
「纏足は結局、体格が悪くなることにつながります。その女性から生まれてくる子供たちの体格も悪くなる。民族として悪循環に陥ってしまうのです。この習慣を断ち切るためには、女性のスポーツを盛んにすることが必要だと考えています。春夏秋冬、老若男女、東西南北、広い中国のどこでもできるスポーツが私たちには必要なんです。中国はまだ貧しい国です。でも、卓球台なら、自給自足できる。林の中にセメントやコンクリートの卓球台を置くことも可能でしょう。そういう理由で卓球を選んだのです」
もう一つ、欧米列強の植民地となった屈辱の経験を吹き払うために、スポーツによって自信を得ようと、周は考えた。
「日本人が敗戦後のどん底から自身を取りもどしたきっかけは、荻村さん、あなたたちが活躍したスポーツだったでしょう。同じような体格の日本人が成功した種目で徹底的に鍛えれば、中国人も成功できるのではないか。あなたの経験と力で卓球のすばらしさをこの国の人民に伝えてほしいのです」
世界大会で統一コリアチームも実現
現在の「卓球王国・中国」をつくったのは周と荻村ということになるが、この2人はアメリカと中国の国交正常化につながった「ピンポン外交」の生みの親でもあった。提案者は荻村だったとも言われる。
この荻村の驚異的粘りが世界をアッと言わせたのは、1991年春、千葉で開かれた世界卓球選手権大会に「統一コリア」チームの参加を実現させたことである。この時、荻村は韓国に20回、北朝鮮に14回も足を運んでこの夢を現実のものとした。この統一チームは女子の団体戦で中国を破って優勝し、表彰式では会場が「アリラン」の大合唱で沸き返ったという。荻村は大変な民間外交官だったのである。
荻村が亡くなった時、世界選手権シングルスで全人未踏の3連覇をなしとげた荘則棟(中国)はこんな談話を発表した。
「荻村さんは中日友好の開拓者である。私たち中国人民は老朋友(旧友)である荻村さんを決して忘れない。私は荻村さんの試合を撮影した映画を見て技法を学んだ。荻村さんを失ったことは大きな損失である」(敬称略)