針の歩み、糸の流れ
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(19)誰かに早縫いを教えようか
「ちょっとしたご縁で、お世話になってます。おようさんは?」 「私は相変わらず」 どちらからともなく、二人は近くの茶店に入った。 「さかえ屋さんのこと、知ってる?」 昨年、主…
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(18)通りで不意に声をかけられ
嗚咽で幸助の声がくぐもった。 おしまも感極まって泣けてきた。これですべてうまくいく。旦那に金を返したら、幸さんは私と夫婦になって、そして……。 それから十日後、おしまは縫い上げ…
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(17)おしまさんは私の命の恩人だ
お内儀は気を悪くした風もなく、鷹揚に答えた。 「分かった。問屋仲間に酔狂なお人が三人ほどおいでだから、話を通してあげよう」 「ありがとうございます!」 おしまが畳に平伏すると、女…
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(16)番頭や手代が次々に部屋を覗きに
「仕立ての腕のことでございます。あたしが負けたら一生涯、巴屋さんの仕立物は、他の十分の一の値でお引き受けします」 お内儀はゆっくりと頷いた。 「分かった。そういう事なら、賭けの着物は、う…
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(15)一日に五枚の袷を仕立てる
「それはどうも。お内儀さんに代わって、私が承って伝えましょう」 「畏れ入ります。お内儀さんに直に申し上げたく存じます。どうぞ、お取り次ぎください」 「それは困ります。どうぞ、私に仰ってくだ…
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(14)奪われた反物の値は全部で二百両
明かりの下で幸助の顔を見て、おしまは胸を衝かれた。憔悴しきって目がくぼみ、頬がこけていた。いつもは身ぎれいにしているのに、髭も当たらず、月代も伸びかかっていた。昼間の光で見たら、きっと顔色も悪いだろ…
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(13)私はもう何もかもダメなんだ
得意そうに語る乙吉の前で、おしまははらわたが煮えくり返りそうだった。さかえ屋の旦那というお人は、なんとまあ、薄情なんだろう。災難に遭った手代をいたわるどころか、傷口に塩をなすり込むようなことを口にす…
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(12)幸助は気の毒なことになっちまって
さかえ屋に仕立物を届けに行くと、応対に出たのは幸助ではなく、その朋輩の乙吉という手代だった。 いつもの三畳間で検品を受けているとき、おしまは気になってつい尋ねた。 「あのう、今日は幸助…
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(11)針は常に布を離れず布の中を進む
おしまは檜台の表面を撫でながら、手間賃は師走の餅代か、国松のお年玉という形で渡そうと思った。 おしまは木綿の反物を台の上に広げた。大伝馬町の米問屋から頼まれた、使用人のお仕着せ用の生地だ。十…
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(10)実のところ欲しいのは硯じゃない
「お客さん、霰、出来ましたよ」 小女に声をかけられてあわてて席に戻ったが、頭の中は目まぐるしく動いていて、蕎麦を手繰っても味が分からなかった。 おしまは蕎麦屋を出ると、その足で古道具屋…
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(9)蕎麦職人の手元におしまは釘付け
「向島へ渡ろうか。美味いものを食べさせる店が多いっていうから」 今日はおしまが「天ぷらを奢るから、みんなで一緒に吉原見物に行こうよ」と誘ったのだった。おもんも徳松も喜んで承知した。 「実…
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(8)夜の吉原は昼間とは別の国
おしまは絹ぐけの針に糸を通し、まずは晒で運針を試みた。 ……はやい。 針の長さは通常のものに比べて倍近い。その分、一度に縫える縫い目も増える。 これは使える。目からうろこだ。…
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(7)針だって長い方が有利では
反物を包んだ風呂敷を背中にしょって、おしまは日本橋から大鋸町へと歩いた。途中に大きな畳屋があり、空け放した土間から職人たちの働きぶりが見て取れた。いつもなら一顧だにせず通り過ぎるのに、何故だかその時…
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(6)これはまた、品があって粋な取り合わせ
「喜久屋の女将さんと若女将さんがこの着物をお召しになったら、きっと浮世絵に描かれたような、あでやかなお姿でしょうね」 すると幸助は、皮肉っぽく口の端を曲げた。 「あの方たちは、着飾るのも…
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(5)いつもながら良い仕上がりだ
長屋に戻り、縫いかけの着物を引っ張り出した。縫物はなるべく日のあるうちに進めたい。行燈の明かりでは、細かな模様や色合いを見分けるのに難儀する。 指抜きをはめ、針に糸を通し、絹の布に針を刺した…
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(4)いつの間にか行かず後家の身に
おしまは今年取って二十五になる。十二の年に木挽き職人だった父が流行病で亡くなり、それからは母が女手一つでおしまと六歳下の妹を育てた。母も仕立物の腕が良く、呉服屋から内職をもらっていたので、母子三人は…
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(3)さかえ屋は婿を取るらしい
耳の奥で、おしまの腕をほめそやした幸助の言葉がよみがえった。 あの言葉は嘘だったの? そこでおしまは立ち止まり、一度大きく息を吸い込んで、吐き出した。頭に上っていた血がさっと引いて、…
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(2)あの女も仕立を頼まれたのか
「ああ、よかった」 幸助は大げさに溜息をついた。 「ありがとう。おしまさんならきっと引き受けてくれると思ったよ」 笑顔になって、懐から紙きれを取り出した。 「これがお嬢さん…
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(1)称賛され、内心は得意の絶頂
「ごめん下さいまし」 おしまはさかえ屋の勝手口の前で声をかけ、引き戸に手をかけた。かまどの前にしゃがんで火吹き竹に息を吹き込んでいた飯炊きの婆さんは、竹から口を離して立ち上がり、奥に呼ばわった…