本当に重大なことは議題にしない日本の政治文化
「参加と交渉の政治学」本田宏著 法政大学出版局 2600円+税
ドイツと日本は、人口や経済規模、産業構造、歴史など多くの点で似ており、しばしば比較される。そのドイツは脱原発したのに、なぜ日本にはできないか。誰もが思う疑問だ。本書はその「回答」の一つかもしれない。
ドイツの裁判所が初めて原発建設を止めたのは1975年だが、日本では2014年の関西電力大飯原発の再稼働差し止め判決が最初だ。再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度はドイツの10年遅れだったが、司法はなんと40年遅れだ。
メディアも、ドイツでは権力と厳しく対峙してきたが、日本では記者クラブで飼い慣らされ、広告宣伝費で釣られ、原子力ムラの一角を占めてきた。
反原発運動も、ドイツでは緑の党を生み、新しいシンクタンクを生み、原子力安全委員長さえ生むなど社会の中で昇華されていったが、日本ではずっと異端視されつづけた。3.11後は多数派になったのに、安倍政権下では再び「異端」へと追いやられつつある。
3.11後にメルケル首相が立ち上げた倫理委員会は注目されたが、さかのぼれば1975年に市民対話という歴史がある。ドイツでは原発導入の初期からきちんと政治の議題として取り上げ、法治のもとで重層的な「参加と交渉」を重ねてきた。考えて見れば、民主主義では当たり前のことだ。
他方、日本では、原発は政治の議題からずっと外されてきた。本当に重大なことは議題にしない政治文化の日本では、原発はあまりに政治的すぎたからだ。市民参加や対話もごく一部に限られ、ほとんどはセレモニーに過ぎなかった。
しかし3.11後の日本では、原発を巡る「政治的な難題」が私たちの目の前におびただしく広がっており、目をそらしようがない。こうした難題に対して、「お任せ政治」や「観客民主主義」に陥らず、私たち一人ひとりが向き合い参加し発言し行動しなければ、「ドイツとの時差」はますます広がってゆくに違いない。
著者が指摘するとおり、「原発事故によって民主主義の質が問われ」ているのだ。