「千の命」植松三十里著
江戸時代の産科の流派として中条流と並んで有名なのが賀川流である。当時、妊婦が難産に陥ったとき、多くの場合は母子共に命を落とすことが多かった。せめて母体だけでも守ろうと、中条流は薬物によって胎児を堕(お)ろしたのに対して、賀川流は鉄かぎによって胎児を引き出すという画期的な「回生術」を編み出し、大きな評判を得た。
本書は賀川流の創始者・賀川玄悦の生涯を描いたもの。
【あらすじ】彦根藩士の家の三男として生まれた玄悦は、幼い頃から母に疎まれていたが、そんな彼を心優しく世話を焼いてくれたのが下働きの八重だった。
八重の死後、彼女が実の母親と知った玄悦は八重の実家、賀川家に養子入りする。病気の母を救えなかったことを悔やみ医師を目指し京都へ行くが、紹介状もない田舎出の若者を相手にする医家はなく、せめて医者にかかれない貧乏人の助けとなるべく按摩(あんま)とはりを学び、昼は古鉄商、夜は按摩という生活を送っていた。
そんな玄悦の心の支えは妻のお信だった。偶然にも隣家のお菊が難産に陥り、胎児は死にかけていた。このままではお菊の命も危うい。生来手が大きく指の長い玄悦は、産婆から試しに子宮から胎児を引き出してみろと言われ、やってみるとなんとか成功し、お菊は一命を取り留める。
以降、出産の不思議を目の当たりにした玄悦は遊郭の妊娠している女性たちを多く集め、彼女らを子細に観察・研究し、鉄かぎで胎児を引き出す回生術を案出する。その評判はたちまち広がり、山脇東洋ら一流の医者たちからも、その技術が認められることになる。
【読みどころ】生涯、金銭や名誉とは無縁に、ひたすら妊婦の観察によって近代産科学の幕を開いた玄悦。その人間味あふれる生き方を見事に描き出した秀作。 <石>
(小学館 737円)