「これからの時代を生き抜くための 文化人類学入門」奥野克巳氏
ロシアとウクライナの戦争、政治と宗教の関係、はたまた未婚率から貧困問題まで、昨今の社会はいつになく問題だらけである。本書はそんな暮らしにくい世の中を、文化人類学の視点を活用して生き抜くヒントを探ったものだ。
「文化人類学とは、自分にとってなじみの薄い文化にどっぷり漬かってそこからの視点で世界がどのように見えるか、一つの現象に多様な解釈、いろいろな見方をしてみる学問です。既成のやり方や考え方を疑う姿勢が特徴でもありますから、その意味で目の前の問題や、これからの時代を生き抜くヒントは大いに見つかると思いますよ」
異文化からの視点、多様な解釈とは何か。たとえばシェークスピアの「ハムレット」は、一般的には“悲劇”として知られている。しかしナイジェリアに住むティブ族の人々にとっては「若者に対する教訓的な物語」であり、ハムレットの母が先王の弟と結婚し不道徳とされたことも、ティブ族の慣習では、道徳的なことだという。
「我々は、何か現象が起こったときに文化から抜け出して何かを解釈するということはできないんですね。ですから我々が日頃なにげなく口にする『あたりまえ』は、決して当たり前ではなく、正しいこと、とも言えないんです」
近年、日本では未婚の割合が上昇し、離婚件数が増え、家族のあり方についてもいろいろな意見が交わされているが、本書で紹介されるボルネオ島の狩猟採集民プナンの家族関係は、およそ我々日本とは異なっている。
「プナンの結婚は男女の性愛関係が先行して維持・継続されます。日本と同じ一夫一婦制ですが、一生のうちで結婚と離婚を何度も繰り返すのが“あたりまえ”です。離婚すると子どもはどちらかの親か祖父母に引き取られます。子どもの帰属先は極めて流動的で、皆が子育てに参加するという理念なんです」
最近、社会の理解が進んできた「ホモセクシュアル」についても、生物学的に見るとそうだったのか、と腑に落ちる。
「霊長類では交尾が起こるには発情というきっかけが必要ですが、オランウータンとゴリラのメスは発情兆候を示さないため、オスの性的興奮はメスの発情兆候に左右されません。その結果、性の対象が異性だけに限らず、同性にまで広がる可能性が生まれたんですね。また、高地ニューギニアのサンビアの人々は、生まれてきた男の子は、少年から大人に変わる儀式として、男性の精液を飲まされます。そして儀礼が行われる間は、サンビアの男たちの間では同性愛的な性行為が行われるんです」
同じく性の問題である「LGBTQ」についての認識も興味深い報告がある。インドネシアのスラウェシ島に住むブギスの社会には、男性、女性、そして、性と心が異なる男女、両性具有者の5つのジェンダーがあり、なんと、ジェンダーは交換可能なものだそうだ。
■婚姻関係は共同体の成り立ちに影響
日本では伝統的な性別の役割を求める人々も多いが、世界を見れば、ジェンダーをそれほどかたくななものとしない社会もあることがわかる。これらジェンダーや婚姻関係は共同体の成り立ちにも大きな影響がある。
「ボルネオ島のプナンでは、自分に与えられたものを他人に惜しみなく与える者が尊敬され、共同体のリーダーになります。彼らに物欲がないわけではありません。しかし、子どものときから分け与えられたものは周囲に分け与えなければならないことをしつけとして教え、シェアする心を養っています」
物欲を否定せず、それを育てることによって競争社会で勝ち抜いていく社会とは全く違うのだ。
「あたりまえに考えてしまうことを別の観点に照らし合わせて、自分の居場所を見つめ直してみることが必要ですね。今、人間中心主義でなく、動植物や菌類など他の種も人間と共に生きてきたことを認識し、改めて問い直す時期にきています」
(辰巳出版 1760円)
▽奥野克巳(おくの・かつみ) 1962年生まれ。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。82年にメキシコ先住民の村に滞在、88~89年インドネシアを1年間放浪の後、94~95年ボルネオ島焼き畑民カリス、2006年以降同島狩猟民プナンのフィールドワークを続けている。著書に「絡まり合う生命」「モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと」など多数。