日本は幽霊、海外はリビングデッド ~『寝煙草の危険』~
海外の『怖い』は形があるかどうかがポイント
今回は海外作品です。
地域特性と文化圏、そして感覚の違いから、海外では日本とは異質なホラー作品が数多く生まれています。北方文化圏に根付く霊界との交信術シャーマニズム、中国のキョンシー、日本の陰陽師など、独自の文化は分かりやすいですよね。特に日本の陰陽師は呪文やら御札やら式神やらを駆使して戦ったりするので、ビジュアルとして映えます。
ちなみに古い城や老木に意志が宿って怪物になる、という感覚は世界共通ですね。日本なら付喪神(つくもがみ)でしょうか。ホラー作品だと、住居や車や自動洗濯機までモンスターになっています。
まず、ホラー作品の海外と日本の違いについて。主に感覚の違いでしょうか。
恨み辛みや心残りといった情念が澱(おり)となってこの世に遺っているものが幽霊。日本は、無形の幽霊文化です。しかし海外では、これを『怖い』と認識されるかどうかは、形あるものになっているかが焦点になります。
「化けものであれば触れるので、襲われたら危害をこうむるのは感覚として分かる。でも怨念などは無形なので、殴られることもない。恨まれたからといって、だからなんだ」
手として具現化している幽霊や、剣を持って生者の首を刎ねる騎士、生者を撥ね飛ばす幽霊馬車など、触って掴めるかどうかがポイントです。ブギーマンやジェイソンなんかは完全にモンスターですものね。そしてジャパンホラーの幽霊に対抗するかのように、一気に広まったのが”Living Dead”──リビングデッド。恐怖の対象として、たいへん分かりやすい。
日本では無形の『幽霊文化』。対照的に、海外では有形の『リビングデッド文化』なのです。
■まるで「小公女セーラ」のような少女の幽霊話
次に、ホラーとSFとファンタジーとの違いについて。どれも現実世界とは離れた世界観を持つので、よく比較されます。
怪物と出遭って、逃げるのがホラー。捕まえて解剖するのがSF。友だちになって、お茶するのがファンタジー。
分かりやすいですね。ところが広義のホラーでは、モチーフが幽霊だとホラージャンルに入ることが多々あります。
アーサー・キラ=クーチ著『一対の手──ある老嬢の怪談──』(※創元推理文庫『恐怖の愉しみ・下巻』収録)は、ホラーに対する私の認識を改めさせた作品。
主人公が人里離れた家を借りて住んでからしばらくして、屋内で奇妙なことが起きることに気がついた。それは女の子の幽霊だった。7歳のときに病気で死んでしまったが、家を掃除したり、訪れた幼い子どもの面倒を見てあげようとしたりする、と主人公は家政婦から告げられる──。
けっして悪いことをしない少女の幽霊です。これは『小公女セーラ』の幽霊だ。そしてクライマックスで待ち受けるのは『世界名作劇場』の一場面かと見紛う感動。
読み終えて、私はしばらく動けなかった。これがホラーなのか、と自分の意識で消化するのに時間がかかってしまった。
寂れた一軒家に現れる少女の幽霊。そのシチュエーションから想起するのは恐怖のエピソードである。読み手の想像力から恐怖を湧き上がらせるその手法は、まさしくホラーだ。しかしホラーだからといって、最後まで話のベクトルが恐怖へ向いているわけではない。ときには胸を熱くさせたり、切なくさせたり、心を震わせる話もあるのだと知った。
ホラーは奥が深くて広い。先へ進むほど底が見えない。