保阪正康 日本史縦横無尽
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大正時代「3大テロ」の影…原敬、浜口雄幸、犬養毅が暗殺された理由
大正時代の「3大テロ」は結果的に、歴史を変えることになった。財界首脳、現役の宰相、そして摂政宮といえども実際には天皇の役割を果たしていた裕仁皇太子、この3人への狙撃には前回紹介したように5つの特徴が…
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大正時代の3大テロ事件は明治期の前提をあっさりと打ち破った
大正時代は、明治と昭和に挟まれて歴史の年表に窮屈そうに抑え込まれている。明治の45年、昭和の64年に比べればわずか15年である。無理もないということか。 しかしこの元号の時代をよく見ると、い…
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「午前九時三十分、孫文は静かに逝った」歴史は蒋介石、毛沢東、関東軍将校の時代へ
孫文は中国人の医師のもとで最期を迎えたいと、1925年2月にロックフェラー病院を出ている。3月に入ると意識が薄れ、12日には危篤状態になった。山田純三郎は宋慶齢に呼び出され、最期の場に立ち会って欲し…
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孫文は苦痛で顔を歪めた…革命の最終段階を襲った肝臓がん
孫文が体の不調を訴えたのは、日本から戻ってまもなくのころである。共に神戸から上海に戻った山田純三郎は、孫文がわき腹に手を当てて、時に苦痛の表情を見せることに驚いた。 実は孫文は上海から天津に…
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加藤高明内閣は孫文を「歓迎されざる客」として敬遠した
孫文が亡くなって、日本人志士との間が切れた形になり、日本と中国の関係は極めて露骨な力勝負といった形になった。このシリーズではあと2回、その最終段階の光景を描いておく。孫文らの革命派を助けた民間人、政…
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タイミングを失った孫文への返事 犬養毅を怯ませた「国共合作」路線
孫文が山田純三郎に託した書簡は字数が3000以上に及んでいた。日本文に訳すと便箋で20枚以上になった。それは辛亥革命に至る過程での日本人志士への感謝から始まり、日本と中国がいかに同盟関係を強めていく…
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中途半端な対中関係を改めて欲しい…孫文が犬養毅に送った心底からの叫び
例えば日本の背反行為には次のようなケースがあった。孫文は第3次広東政府の指導者に復帰したあと、広東総領事に赴任した天羽英二としばしば会っている。天羽は孫文に会ううちに、次第にその考えに引かれている。…
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孫文返り咲き 蒋介石を参謀長に抜擢し軍事組織を整備
このシリーズは、辛亥革命に協力した日本人志士が、つまりは志半ばで、孫文らの革命派と分かれていく過程を俯瞰している。辛亥革命は当初の計画の通りには進まなかったわけだが、分かれていく、その理由は幾つかあ…
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孫文は三たびの返り咲きで広東政府の指導者になるも…最大の同志・宮崎滔天は死去
孫文とその信頼の厚かった陳炯明との対立は、軍事上の衝突に行きつき、孫文は珠江に停泊している広東政府の軍艦に逃げ込んだ。反乱軍はイギリスと日本の艦船に挟まれる形の軍艦に砲撃を加えられず、孫文は命を永ら…
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中国の内情に日本の関東軍が食い込んだ背景
山田純三郎はその不安を確かめなかった。孫文が共産党に近づくことには賛成ではなかったが、それを口にするほどの関係ではなかった。孫文さんがソ連にうまく利用されなければと自らに小声で呟くしかなかったのだ。…
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ヨッフェ・孫文「共同宣言」は北京政府の怒りを呼び、デモ隊が死亡
第1次辛亥革命のあとから、中国の歴史は確かに軍閥の戦いに転じた。統一政府はできず、軍閥が割拠して勢力拡大に努めた。その中で孫文の革命派は三民主義の思想(民族、民生、民権)を掲げ、中国国民党を結成して…
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歴史から消えた「辛亥革命に協力した日本人」と秘められた思惑
陳独秀らにより中国共産党が正式に結成されたのは1921年7月である。ソ連のコミンテルンの主導による成立には、ソ連での社会主義革命に倣って中国もそれに準じる体制を設立しようという目的があった。この政党…
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北京政府と広東政府の対立で「第三の革命勢力」が出現した
「五・四運動」は、中国の学生を中心に起きたナショナリズムの高揚運動であった。講和会議は日本の言い分を認める形になった。山東などの領有が認められたのである。北京の大学生たちは、全国の学生や労働者に向けて…
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中国のナショナリズムに火をつけた第1次世界大戦後のパリ講和会議
孫文らの革命派はさまざまな考えや出身地閥のような人脈の乱れもあり、袁世凱政府の後を継いだ段祺瑞政府との間の抗争も思うようには進まなかった。さしあたり孫文がよりどころとした広東政府とて寄り合い世帯だっ…
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孫文は「我が国の欠点は軍閥の横行です」と自省を込めて語った
辛亥革命は1911年10月に成就したわけではなく、孫文の革命精神は第二、第三の革命と続いていくことで、その成果を形作っていった。それに協力した日本人の総数はどれほどに及ぶのか、十分には分かっていない…
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矛盾に満ちた日本の対満州政策 二重構造のもとでそれぞれがそれぞれの思惑を
孫文は日本政府が段祺瑞政府に肩入れすることは、中国の人々を裏切ることだと日本国内の有力者を口説いた。もっとも孫文自身は中国で密かに第三革命の準備を進めているので、腹心の者が日本を訪れて説得にあたって…
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大正5年6月の袁世凱の急死が招いた中国の混乱と内戦
袁世凱政府と孫文らの革命派の抗争は大正5(1916)年になって中国各地でより激しくなった。孫文らの同志が各地で反袁の挙兵を行うのだが、これはそれほどの広がりをもたなかった。袁世凱政府の側が国民党の幹…
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東京で交錯していた政府、孫文、日本人志士による駆け引きと思惑
日本外交が侵略的色彩の濃い「二十一箇条要求」の、その第5号を省いて最後通牒の形で袁世凱政府にこの要求を突きつけたのは、5月7日である(大正4年)。袁世凱政府はひとまずこれを受け入れた。2日後の9日で…
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「二十一箇条要求」第5号に込められた中国属国化の企み
「二十一箇条要求」の内容は、たしかに中国のナショナリズムを刺激する内容であった。もともと日本は日露戦争で獲得した権益を名実ともに、日本の国益に合体させる政策を進めていたのだが、さらにそれを拡大しようと…
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近代日本の最大の過ち? 権益を拡大するチャンスを画策した「二十一箇条要求」
「二十一箇条要求」が日本国内、そして中国国内にどのような反響を起こし、何を浮き彫りにしたのか、そのことを考えてみたい。高名な歴史研究者が「近代日本の最大の過ちは、この二十一箇条要求にある」と喝破したが…