保阪正康 日本史縦横無尽
-
袁世凱の弱みを握るため孫文を監視した日本政府 勝手に手を出せない大物が支援
「討袁挙兵」が孫文ら革命派の合言葉となった。純粋の革命派は自分たちの掌握している地域で、袁世凱政権と袂を分かつ宣言を発表している。李烈鈞や黄興、陳其美、陳炯明らは上海、広東、江西で起こしていた。そのこ…
-
桂太郎と孫文の公開されなかった極秘会談メモ
「二十一箇条要求」を突きつけられて、辛亥革命後の袁世凱政府と孫文らの革命派はどのような動きをしていったのか。それが日本国内の政治地図を変えることにもなった。歴史の深層部分はこの違いを見ることで各様の人…
-
中国の統一をめぐる北一輝の変節…革命派とは一線を引くように
宋教仁は、革命派が孫文の言う通り国民党をつくることを了解して、その政党づくりに奔走していた。すでに袁世凱系は共和党を結成していたため、それに張り合う意味もあって精力的だったのである。袁世凱系にはそれ…
-
辛亥革命の実態…袁世凱と孫文を支えた日本の誤謬
辛亥革命と一口に言っても、その実態は必ずしも孫文らの革命精神や具体的な改革がすぐに実行されたわけではなかった。袁世凱は清朝帝政の側の革命を阻止する役割を演じるポスト(全軍を統率する欽差大臣)に就任し…
-
袁世凱は革命派と清朝政府の対立を利用して暗躍した
もう少し辛亥革命について触れておくが、そもそも「辛亥革命」とは一般的にどの期間を指すのだろうか。これについてはそれぞれの立場で異なり、私は1911年10月の武昌蜂起から始まり、翌12年2月に孫文が正…
-
「武力を用いても君主政体を維持させる」と突っぱねた内田康哉
山県有朋が辛亥革命(明治44~45年)で清朝帝政を倒した孫文らの革命派に軍事干渉しようと考えていたことは、いくつかの資料によって明らかになっている。革命の成功が見えつつある頃、犬養毅は頭山満らと中国…
-
山県有朋が辛亥革命を恐れた理由 共和政体に不安ないし怯えを抱いていた
明治期から大正期への移行にあたって幾つかの注視しておくべき点がある。それは明治44(1911)年10月の辛亥革命である。孫文の革命派は武昌での蜂起に始まり、漢陽などを制圧していき、列国もこれは清朝政…
-
剛直と軍事の間、わずか15年の大正時代に何が変わったのか?
大正時代は、明治と昭和に挟まってなんとなく影が薄いように見受けられる。明治が45年(実質では44年になるが)、昭和が64年(実際は62年と2週間)なのに対し、大正は15年に過ぎない。実質では14年だ…
-
社会主義や社民主義など全てを「逆徒」と見た時代に死んだ国家の理性
大逆事件以後の日本の社会主義運動は、いわゆる「冬の時代」に入った。政府は社会主義思想に極端なまでの恐怖を持ち、こういう主義者の集会や出版活動、さらには「社会」と名がつけば、それだけで危険視するという…
-
「自分の死後は万事監獄の処置に…」取り調べ刑事から女性としての辱めを受けた管野スガ
堺利彦が1月24日に、東京監獄に面会に訪れた時は死刑が執行中であった。しかし監獄側から「本日は面会を差し止める」と言われて、忿懣やる方なく新聞記者に怒りを伝えている。そこで死刑判決が出た後に、被告た…
-
社会主義者・管野スガの処刑は「悪びれたる様なかりき」と報じられた
アナキズム関連の書や死刑になった社会主義者や無政府主義者の動きについての書に触れていると、明治42(1909)年6月ごろに宮下太吉が爆弾を製造し天皇に投げつけるという案を管野スガに打ち明けたほか、新…
-
「フランス革命を日本でも行え」と幸徳秋水がアジったという筋書き
幸徳秋水、大石誠之助、内山愚童らの影響力が大きいことを、国家の側は知っていたのであろう。大石は医師、内山は僧侶、こうした仕事についている人物が、社会主義や無政府主義に傾斜することは極めて危険との判断…
-
「詳しくは知らない」を説得されたと曲解した暗黒裁判
大逆事件として事件の輪郭をつくり、主義者を抹殺しようと考える国家意思は、検事総長の記者への報告を丹念に読む限り、主犯格の人物を想定し、その動きをもとに平民新聞のかつての読者や社会主義関連の文献を読む…
-
2年前の会話を再現した「でっち上げの罪状」からうかがえる司法当局の意思
検事総長が新聞記者に伝えた各被告の罪状はいわば、いかに事件がでっち上げられたかの証拠になるともいえた。と同時に、幸徳秋水を巧みに事件の主軸に据えるかのような筋書きもうかがえる。その他に管野スガと大石…
-
検事総長が発表した「大石誠之助医師」の嫌疑、7項目の不審点
検事総長が発表した大逆事件の全容については、各新聞の扱いがそれぞれ異なるにしても、改めてその内容を検証してみると、どのような脚本が作られたかの背景がわかってくる。その脚本では、大石誠之助の役割は「医…
-
大石誠之助死刑囚が直面した「国家の敵を抹殺する」体制への覚悟
大石誠之助についてもう少し触れておきたい。 平民新聞の熱心な読者で、しかも非戦論に共鳴している青年に西村伊作(のちの文化学院の創設者)がいた。大石の甥である。大石の兄・余平の子息だが、母方に…
-
米国で学んだ医師・大石誠之助の最期の言葉
堺利彦はこの日(明治44年1月21日)、幸徳秋水のほかに3人の死刑を宣告された同志に会っている。その1人が大石誠之助である。大石は、和歌山県新宮町で医師として開業し、人々の信望を集めていた。いわば地…
-
明治44年1月24日、堺利彦は幸徳秋水らの死刑執行を確信した
司法当局が処刑時の様子を詳細に報道させたのは、国家に叛く思想を持つと、このような報復を受けるのだという意思を国民に知らせるためであった。そもそも大逆事件と称したのも、12人の死刑囚の全てに、あたかも…
-
新聞が報じた社会主義者・幸徳秋水「死刑執行」の一部始終
24人の裁判での内容やその容疑理由などから判決に至る内幕などは、検事総長から長文の文書で発表され、それを各新聞が取り上げている。むろんこれは国家権力の都合のいいようにつくられたドラマのようなものとも…
-
新聞に躍った「逆徒遂に絞首台の露と消ゆ」の見出し
大審院での24人の死刑判決は、この頃の新聞に大きく取り上げられた。それまで法廷の様子などは一切報じられなかったが故に、まさに「記事解禁」の様相を呈する状態になった。 しかも翌日には「天皇陛下…