保阪正康 日本史縦横無尽
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真珠湾攻撃2日前の夜中、夫人だけが目撃していた東條英機の泣き姿
「ふとした話」というのは、カツ夫人や娘さんに会う頃は、東條英機の秘書や副官に会っていたし、軍内の反東條派だった石原莞爾系の軍人や東亜連盟系の活動家たちとも会って、散々に東條礼賛と批判を聞かされていたの…
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密かにインタビューに応じた東條英機夫人との交渉
昭和50年代初めに、戦後世代として東條英機の評伝を書いてみようと思い立ち、実際に取材活動に入ってみると、驚くことがいくつもあった。旧軍の戦時下での行動は、確かに傍若無人そのもので、彼らへの怨嗟、怒り…
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「君は政治団体や思想団体に属していないね。それでインタビューに応じることにしたのさ」
昭和40年代の終わりから50年代の初めといえば、太平洋戦争が終わってからまだ30年ほどである。戦争体験者の方がまだ多かったのではないだろうか。とはいえ私は旧軍人に特別に知り合いはいなかった。それどこ…
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平成生まれにとって昭和は「歴史」である
新しい年の始まりだが、このシリーズは「昭和史」を歴史の視点で見つめている。令和6(2024)年は昭和に換算すると、「昭和99年」になる。すでに35年が過ぎている。平成の生まれが社会の中軸世代に育って…
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近衛文麿、幣原喜重郎、石橋湛山…真の政治家になれなかった3人の総理に欠けていたもの
昭和前期、中期、後期の3段階に、相応の識見、歴史観、政策を持っていた総理大臣は誰であろうか。不幸にもその政策が実施されなかったことが、昭和史の不幸だとも言えるわけだが、あえて私は3人の総理大臣をあげ…
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「昭和」時代の顔となる3人の総理大臣は誰か
近代史と現代史の二つの顔が同居している昭和史。昭和という時代のその顔を具体的に示すエピソードをもう少し語っておこう。総理大臣に選ばれている指導者が、いかに性格や識見、それに人物のタイプが異なるかも極…
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戦争と平和、昭和史に存在する極端な「2つの顔」の学び方
昭和史の「2つの顔」を描き出すにあたり、もう少しその違いを鮮明にしておく必要がある。この2つの顔は無論どの国も抱え込んでいるわけだが、日本の特異性は「極端にすぎる」という点にあるだろう。 戦…
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「昭和」は貴重な財産 近代史と現代史という2つの顔を持つ
昭和史は私たちの貴重な財産である。日本が国家として存続する限り、いや昨今の風潮を見ても、日本も早晩西暦で歴史を振り返ることになるのだろう。 しかし、「昭和」という国民的体験はこの元号のもとで…
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進歩とは何か? 「五・一五事件」は大正期の昭和への反乱だった
橘孝三郎の文化村は、昭和の現実に向き合うことになったのだが、それは図らずも合法と非合法からの接触によって歴史の年譜の中に入り込むことでもあった。 風見章は農業恐慌下での農村救済を橘の理論に託…
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凶作と金融恐慌、根本から揺らぐ農村…農本主義運動が迎えた転換点
武者小路実篤の新しき村は、大正末期には縮小した形で細々と続けられていく。橘孝三郎の文化村は一時は、やはり自我の衝突があったようだが、橘の個性と教養により理想的な共同体の評価を得ることになった。しかし…
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武者小路実篤による「新しき村」の頓挫 出版部員の人員整理も
農本主義の実践活動の一つである理想郷づくり、武者小路実篤の「新しき村」が頓挫したことはこうした理想郷づくりがいかに難しいかを語っている。 ここにかけ参じた仲間たちは、これまでの日本社会の定ま…
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橘孝三郎の農本主義思想は資本主義体制の否定に利用されていく
橘孝三郎の大正末期から昭和初期の実像をもう少し活写したい。なぜなら理想主義者がいかなる日本社会の疲弊した状況に挫折したかを見ていくことで、近代史の本質も見えてくるからだ。いや、この農本主義者の理念が…
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資本主義と共産主義を超える「農」橘孝三郎は自信と誇りを持つべきと主張した
「都市と農村」という対立軸は、この頃に極めて独自性を持っていた。この対立軸で見るならば、「地主と小作」の構図は、資本家と労働者の対立軸を援用した形になるのだが、この都市と農村になると、もっと根源的な意…
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農民が労働者の視点を持ち始めた 共産主義運動の流れで急増した「小作争議」
橘孝三郎らが目指した農村共同体の改革は一面で近代日本の資本主義体制への挑戦でもあった。農民がまさに、「生かさず殺さず」の環境で日々働くことでその体制は支えられていた。 大正期の小作農の生活が…
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大正の理想郷づくりはなぜ失敗していったのか
理想のユートピアを目指す共同体づくりは失敗に終わるのだが、それは農業恐慌に端を発していた。しかし同時に理想郷づくりは、結局、個性と個性の衝突に至るという側面もまたあった。そう簡単にはいかなかったのだ…
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橘孝三郎と武者小路実篤、農本主義と知識人の付き合いはどのような形で始まったか
大正末期、農本主義者の橘孝三郎と武者小路実篤の間には、実は交流も続いていた。武者小路は白樺派同人の中では指導的な役割を果たしていたわけだが、白樺派には作家、評論家、彫刻家、詩人だけではなく、民芸家の…
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武者小路実篤と橘孝三郎、ふたつの理想郷の異なる空気
武者小路実篤にしても、橘孝三郎にしても、いわば理想主義者であり、人道主義者でもあった。人間が金銭や打算や、さらには利己的な考えだけで世渡りをすることには極めて潔癖な姿勢で批判した。純粋な真人間、とい…
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武者小路実篤、橘孝三郎…真の農本主義者を目指した知識人たち
関東大震災のあと、田舎を見直す空気が高まった。そのことを夢野久作や佐藤春夫の短編、エッセーなどに言及しつつ語ってきた。むろんそのほかにもさまざまな作家、評論家らが改めて「東京」を客観視する作品を書い…
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佐藤春夫は風景の変化を予想した 浅草から銀座へと散歩区が変わる東京
都市から田舎の良さを見つめ直す作家の目は、東京から江戸期の人情や義理、果てはこまやかな感情のほとばしりが失われていくことに寂しさを感じたのであろう。そういうエッセーを紹介するなら、佐藤春夫の「滅びた…
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東京という街が「東郷平八郎偽筆事件」を生み出した…大正期の人々には複雑な思いが
夢野久作が「恐ろしい東京」を書いたのは、昭和12年(1937)2月の「探偵春秋」であった。作家たちは帝都復興が軌道に乗ってから、望郷の念やみがたく、大正期の姿を思い出して書いたとも言えそうだ。夢野は…