野田義治「新・巨乳バカ一代」
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気付けば“伝説のスカウトマン”上條英男の元で働いていた
「そう! 野田(義治)は最初オレんところにいたんだよ」 伝説のスカウトマン、上條(当時は上条)英男が私に証言した。 新宿・歌舞伎町のディスコ「サンダーバード」で連日ステージにミュージシ…
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GSバンド「4.9.1」をブッキングしたスカウトマンとの邂逅
「僕が芸能界に一歩近づくようになったのは、ディスコのブッキングをやりはじめてですね」 我らが巨乳マイスター野田義治が回顧する。 1960年代後半、新宿・歌舞伎町のディスコ「サンダーバー…
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ギャラ前払いの内田裕也さん「必ず来て」と伝えても来ない
「ブッキングしたはずが、いざ当日、ステージにいなかったりしてね。いつも大変でした」 われらが巨乳マイスター、野田義治が1960年代後半のショービジネスを語る。 新宿・歌舞伎町のディスコ…
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トラブル時は「そのシマを仕切るヤクザに話をつけていた」
「道路1本はさんだらシマ(縄張り)が違うわけじゃないですか。僕が気をつけたのは、店に文句言いに行くときは、先にそのシマの親分連中にちょっと話つけて、それから行きました」 昔、店にはそれぞれ「ケ…
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月給100万円でソープの店長に誘われたが丁重に断った
「花札賭博が開帳されて近所の小金持ちがのぞいても、いいようにむしりとられちゃう。要するに、負けるようにできてるんです。賭博師はやっぱり職人ですよね。あの人たちって、女性のようにものすごい柔らかい手をし…
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薬きょうが刺さって…野田の腕にかすかに残る青春の“痕跡”
1960年代後半。 多摩川河川敷に日大・国士舘の大学生たちが集結し、にらみ合いとなった。 いまよりはるかに娯楽が少ない時代ゆえ、精力をもてあます若い男たちにとってケンカは最高のストレ…
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60年代後半 ケンカは何よりのエンターテインメントだった
60年代後半の新宿。 野田義治青年が不良たちの生態を証言する。 「先輩から“刺してこい”って言われたら、切り出しナイフ握って本当に刺しにいくんです。みんなしてはやし立てるわけですよ。顔…
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ワルたちとの交流 新宿の半グレ集団「紀伊国屋グループ」
「いまでも鋳型をつくれって言われたら、すぐにやれますよ」 われらが巨乳マイスター野田義治が、青年時代を追慕する。 「東京オリンピックの年(1964年)にこっち(東京)に出てきて、下落合の…
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歌舞伎町に昔からいた「ぼったくり」罪の意識は皆無だった
1960年代後半、新宿・歌舞伎町はぼったくりが横行していた。 劇団の研究生で夜はアルバイトでジャズ喫茶の雇われマスターをしていた野田義治青年が証言する。 「(ノートに図面を書きながら)…
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60年代後半に過激化した学生運動を冷静に見ていた野田青年
「全部米軍の横流しってやつです。当時オート三輪車ってあったじゃないですか。バタバタ走る。稼業の人が荷台に機関銃のっけて組事務所を撃ちに行ったことがありました」 野田義治青年が役者をめざし上京し…
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1964年 ブルーインパルスが描く「五輪マーク」を見ていた
青空に5機のF86が編隊を組み、それぞれカーブを描くと五輪マークが描かれた。 オリンピックのシンボルマークだとわかると、地上の人々から一斉に歓声が湧き上がった。そのなかに18歳の野田青年もい…
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野田青年は“キューポラのある街”川口市で俳優修業を開始
「映画好きが高じて、俳優になりたいと思い始めたんです。これが大きな勘違いなんだけど(笑い)。“考え直したほうがいいぞ”って友だちから諭されましたよ。でも応募書類を書いてオーディションの申し込みを済ませ…
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映画に夢中だった野田少年は「第2の高橋英樹」目指し上京
母に連れられて街の映画館で3本立て100円の映画を見る時間が、野田義治少年の心をとらえた。 中学高校のころは自分ひとりで映画館に通い詰めた。なかでも夢中になったのは東映、日活のアクションもの…
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ヤンチャな工業高校時代 野田はいつも先生に殴られていた
「オレ、なんで記念写真にまったく写ってないんだろう。入学式とか卒業式とか、そういう記念のときの写真に写ってなかったからね。オレ、このとき何やってたっけっていったら、先生に注意されて謹慎中だったり、先生…
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ヤクザの「広島抗争」真っただ中の呉市で過ごした高校時代
「舞鶴って京都弁じゃないですか。広島って“おんどりゃー”でしょ。引っ越した僕は京都弁でしゃべるしか方法ないじゃないですか。そのときはこっち(広島)の言葉でしゃべれって言われて、けっこうやられましたけど…
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自衛官の親父は航海に出ると1カ月以上帰ってこなかった
■野田のルーツをたどる「青雲編」 「今でも新宿に何軒かある一膳飯屋のつるかめ食堂で食ってた魚の煮付けとかを食いたいなって、ふと思うときありますよ。おばちゃんがちゃんとつくってくれてさ、そういうの…
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「オレがこうして生きているのは運がよかったんだろうな」
「好奇心旺盛でしたね。いろんな店に顔出したけど、印象に残っているのが『ミニクラブ徳大寺』でした」 野田義治が過ぎ去りし青春を追想する。 ミニクラブ徳大寺とは、70年代初頭に栄華を極めた…
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60年代の原宿駅は明治神宮に参拝するためのマイナーな駅
「原宿は何にもなかった。通過する街でした。交差点のセントラルアパートくらいしか目立つのがなかった。表参道も寂れてたし、竹下通りを1本はずれた通りに友人が住んでいたけど、あんな賑やかな通りになるとはまっ…
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六本木の「絨毯バー」にはスパイダースのメンバーもいた
「お客から預かった油紙に包まれたモノ。組み立てていったら……」 拳銃だった。 新宿・歌舞伎町の人気ディスコ「サンダーバード」支配人として東洋一の殷賑(いんしん)地帯で野田義治が働いてい…
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ヤクザにボディガードと間違われた駆け出しマネジャー時代
「タレントの営業マネジャーしていたころ、後ろのポケットにビール小瓶2本突っ込んで、ガードしていました」 巨乳マイスター野田義治が回想する。 芸能プロダクションのマネジャー時代、地方のキ…