釜本邦茂が語る「ガマッチョの真実」
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パスを回すばかりのサッカーに喝! 最近のFWには同情を禁じ得ない部分も…
「スッと来た球を腰をガッとしてガーンと打てばいい」(プロ野球・長嶋茂雄さん) 「ゴールが見えたらアレコレ考えずにズバッと蹴ったら入るやろ」(釜本邦茂) 2人の語録をゴッチャにして「長嶋も…
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今の代表よりも「したたかさ」はメキシコ五輪代表が上かも知れん
ガンバ大阪の監督を続けることができず、傷心の日々を送っとった1995年の1月。早稲田大体育会の大先輩・自民党の森喜朗幹事長から「早いとこ、準備しなさい。夏の参院選比例区に立候補してもらう」と言われた…
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ガンバ監督時代、サイン直前のブラジル代表FWカレカを日立にさらわれた
「釜本の裸体をポスターにした男」、日本サッカーリーグ事務局の木之本興三さんは、プロリーグ創設の旗振り役としても奔走していた。「プロ化しないと日本サッカーはダメになる」と熱弁をふるう木之本さんに「W杯常…
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ヤンマー退職時に「後ろ盾がなくなったら苦労するでぇ~」と脅かされた
33歳で日本代表を引退した。それからヤンマーで監督兼選手としてプレーし、1984年の元日の天皇杯決勝が現役最後の公式戦やった。39歳で3本線の入った愛用のスパイクを静かに置いた。 8月25日…
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JSL公式ポスターでヌードの依頼 裸になっても“出演料”は手土産のマロングラッセ
1977年9月14日のニューヨーク・コスモス戦で日本代表のユニホームとおさらばした。 国際Aマッチ76試合で通算75ゴール。まぁ抜かれることはあらへんやろうなと思うとったら2011年の女子W…
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北米リーグから「家と車と月給2000ドル」で誘われたけど「行かへん」と即答した理由
1968年はメキシコ五輪、日本サッカーリーグ(JSL)で得点王となり、翌年元日の天皇杯決勝では三菱を自分のゴールで1-0で下し、ヤンマーに初タイトルをプレゼントすることができた。でも、69年6月に急…
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軽業師の“ネコ”に「マーク役が1人、2人、いや3人いてもオレにパスを出せ!」と言った
関西の弱小チーム・ヤンマー(現C大阪)に入社(1967年)し、初めて練習に参加した瞬間に「エライこっちゃ」と途方に暮れた。諸先輩には失礼ながら「ヘタクソばっかりと違うか。どうしたらええんか、こんなチ…
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2月に免許証を返納…孫娘の「ジイジのこれまでが台無しになる」に心を動かされた
前回連載分(60回)で「25歳の時に日産スカイラインGTを買った」ことを書いた。車にまつわる話をしてみよか。 1967年に早稲田大を卒業。ヤンマーに入社してから普通自動車の免許を取った。そう…
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ドイツ留学の日当100万円でシルバーの「スカイライン2000GT」を買うた
早稲田大を卒業(1967年)して地元・関西のヤンマー(現セレッソ大阪)に入社することになったけど、在学中にヤンマーの人事担当やスカウトに会ったことは、ただの一度もなかったな。 2年生の秋、合…
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優勝しても得点王になっても、給料はヤンマー退社まで一般社員と同じやった
早稲田大4年生(1966年)の7月やった。早大蹴球部同期の森ちょん(孝慈=元代表、元代表監督)と一緒に三菱サッカー部の創設者である岡野良定さん(元三菱自動車工業会長)と会った。 その場で正式…
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大先輩の川本泰三さんにヤンマー本社に連れていかれて…「お世話になります」と答えるしかなかった
早稲田大ア式蹴球部に鉄拳制裁、いじめといったハラスメントのたぐいは一切なかった。門限に遅れたりすると「グラウンドを走ってろ!」と言われるくらい。ビンタの一発もなかった。関東では、慶応大のソッカー部も…
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万年金欠だった早大時代、練習オフ日は代表先輩の会社にタカリに行っていた
早稲田大1年目(1963年)の秋の関東大学リーグを7戦全勝で優勝し、11ゴールを挙げて得点王のタイトルを獲得した。東京・東伏見のグラウンドでたき火をしながら部員全員がグルリと輪になり、翌春に卒業する…
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早大のオンボロ合宿所で布団1枚分の「タコ部屋暮らし」の思い出
早稲田大に入学したのは1963年春。同期に広島、福岡、茨城とか地方出身者が6人いた。 親元を離れた新人は、全員が早大ア式蹴球部の合宿所に入るのが決まりやった。最寄り駅は西武新宿線の東伏見駅。…
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早大蹴球部で再会…1学年上の森孝慈さんは浪人して一般受験で合格していた
高校選びで父・正吉と意見が真っ向から対立したけど、大学を決める時もひと悶着あった。 戦前から三菱系の企業で働いていた父の願いは「京都・太秦の自宅から通える関西学院大に進んで三菱重工に入社する…
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強豪・山城高に入学したくてハンストをやったというのは“デマ”や
奈良県出身の父・正作は、関西大で勉強しながら「弁護士を目指していた」と母・よしこから何度も聞かされた。それから「弁護士の妻になれると思って嫁いでみたら……だまされたわ」とボヤくのが常やったが──。 …
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野球じゃなくてサッカーを選んだのは、姉という「陰の仕掛け人」がおったから
メキシコ五輪得点王の看板をぶら下げて「W杯に出場してドイツでプロになる」と思っていた矢先にウイルス性肝炎にかかった。25歳やった。絶対安静で療養に専念。女性のウエストほどあった太ももが、みるみるうち…
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ウイルス性肝炎で50日間の強制入院 イメージ通りに体が動かなくなった
1969年6月中旬にウイルス性肝炎と診断されて兵庫・西宮病院に強制入院となった。感染経路は不明。前年のメキシコ五輪から過密日程が続き、2月にはインドネシア、カンボジア、マレーシア、タイ、シンガポール…
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ドイツ移籍を決断した矢先、猛烈な腹痛…監督に「おまえ、目が真っ黄色やないか」
1968年メキシコ五輪の銅メダルと得点王を手土産にドイツのプロクラブに移籍することを決意し、五輪後に再開されたJSL(日本サッカーリーグ)でも好調を維持することができた。 JSLのお荷物とい…
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「なぜドイツに移籍しなかった?」何度も聞かれた質問、今の釜本の答えはこうや
1968年メキシコ五輪で銅メダルと得点王のタイトルを獲得すると海外のプロ6クラブから誘われた。ドイツ1部の1860ミュンヘン(現3部)、五輪本大会の10カ月前に留学していた2部ザールブリュッケン(現…
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「メキシコ五輪得点王」になって海外の6つのプロクラブから誘いを受けた
メキシコから帰国したのが1968年の10月28日の午後10時前くらい。 羽田空港で大勢のサポーターたちの出迎えを受け、テレビカメラのまぶしいライトを浴びながら歩く……なんてイマドキの光景はなかった。…