「なぜドイツに移籍しなかった?」何度も聞かれた質問、今の釜本の答えはこうや
1968年メキシコ五輪で銅メダルと得点王のタイトルを獲得すると海外のプロ6クラブから誘われた。ドイツ1部の1860ミュンヘン(現3部)、五輪本大会の10カ月前に留学していた2部ザールブリュッケン(現3部)のどっちでプレーしようかな……。
いずれにしてもドイツ移籍は「1970年のW杯メキシコ大会が終わってから」と決めとった。
69年10月にスタートするW杯アジア予選を突破し、悲願のW杯初出場を決めた後、70年5月に開幕するW杯本大会でゴールを量産。威風堂々とドイツに乗り込んで大暴れしてやる--。そんな青写真を描いていた。
結論を先に言うと「ドイツへの移籍は実現しなかった」。理由をいくつか挙げてみようか。
■何もかも不透明
まずは「五輪後の日本サッカーの異常なまでの盛り上がり」だった。
メキシコ五輪で中断されていた日本サッカーリーグ(JSL)が68年11月9日に再開され、我がヤンマーは代表主軸組の杉山隆一さん、横山謙三さんの両先輩と早大同期の森孝慈を擁する三菱と国立競技場で対戦した。スタンドは4万人の大観衆で埋まり、あまりの熱狂ぶりに「プロ野球を追い越すような勢いを感じさせられた」と書いた新聞もあったほどや。