JSL公式ポスターでヌードの依頼 裸になっても“出演料”は手土産のマロングラッセ
1977年9月14日のニューヨーク・コスモス戦で日本代表のユニホームとおさらばした。
国際Aマッチ76試合で通算75ゴール。まぁ抜かれることはあらへんやろうなと思うとったら2011年の女子W杯優勝の立役者・なでしこジャパンの沢穂希さんの83ゴールに抜かれてしまった。
女子W杯最多6回出場のレジェンドに「あっぱれ」の言葉を贈りたい。
84年元日の天皇杯決勝の日産(現横浜M)戦が現役最後の公式戦となった。試合は0-2で負けた。引退は事前に決めとったが、ヤンマー時代のコーチだった加茂周さん(後に日本代表監督)率いる日産の初タイトルに水を差すわけにはいかへん。進退について聞かれてもモゴモゴと口ごもりながらお茶を濁し、2月の新体制発表会で正式に現役引退を表明した。
天皇杯決勝の3日後には大仕事が待っとった。 83年の6月やった。人気低迷が続いとった日本サッカーリーグ(JSL)から、84年シーズンの公式ポスターに「釜本さんの写真を使いたい」という依頼が届いた。
JSL事務局の木之本興三さんが、ギリシャ彫刻風の絵コンテを持って大阪のヤンマー本社にやって来た。「来年はJSL20周年。ヌード写真で世間をアッと言わせて盛り上げたい」。大胆不敵なアイデアと強引な説得に「裸の写真! そんなアホな!」と思いながら渋々OKしてもうた。
正直言って気は進まへんかった。でも、どうせやるんやったら「張りのある筋肉を見せたい」と思い、天皇杯決勝の直後を撮影日にしてほしいと注文を付けた。時間を置くと39歳の筋肉は、すぐに緩んでしまうからや。 1月4日に東京・湯島のスタジオで後ろ姿のヌード写真、ボレーシュート、仁王像のような格好の3種類を撮影した。