優勝しても得点王になっても、給料はヤンマー退社まで一般社員と同じやった
早稲田大4年生(1966年)の7月やった。早大蹴球部同期の森ちょん(孝慈=元代表、元代表監督)と一緒に三菱サッカー部の創設者である岡野良定さん(元三菱自動車工業会長)と会った。
その場で正式に入社が決まったというわけやなかったけど、サッカー界では「岡野さんが出張ってきたからには、ガマと森は三菱で決まり」というのが既定路線やった。
唯一の関西勢としてJSL(日本サッカーリーグ)で苦戦続きのヤンマーサッカー部の山岡浩二郎部長の熱意にほだされてヤンマー入りすることになったけど、振り返るに「関西のチームを見捨てるわけにはイカン」というおとこ気みたいなモンを感じたんやろうな。もちろん「三菱にどうやって断ればいいのか……」と憂鬱になった。
早大時代の身元引受人だった元関西サッカー協会会長・川本泰三さんに「三菱に断りを入れておいてやる」と言われて気が楽になったけど、それ以上に気掛かりだったことがある。親友・森ちょんとの「三菱で一緒にプレーしよう」という約束を反故にしたことや。