傷を持つ男女がお互い、いたわりあううちに…
「やさしい訴え」小川洋子著 文春文庫590円+税
【話題】チェンバロは不思議な楽器である。見た目はピアノに似ているが、ピアノがハンマーで弦を叩くのに対し、チェンバロは爪で弾き、ピアノより音は小さく、音の強弱をつけられない。要するに大きなホールではピアノにはかなわないが、狭く小さな空間では、その特徴である倍音がよく響き、独特の癒やしを与えてくれる。ラモーのチェンバロ曲をタイトルにした本書はそんなチェンバロの魅力が存分に描かれる。
【あらすじ】以前から夫に好きな女がいることに気づいていた瑠璃子は、なんとか気持ちを押し殺し、結婚生活を続けていたが、ある日ささいなことから家を出て、実家が所有する山あいの別荘に隠れ住むことになった。
そこで出会ったのが、5、6年前からこの地でチェンバロを手作りしている新田とその助手の薫。カリグラフィーの仕事をしている瑠璃子は同じ職人としてすぐに意気投合する。
新田は突然人前で演奏できなくなった元ピアニスト。薫は無残な形で恋人を奪われた過去を持つ。そして離婚の危機にある瑠璃子。三者三様の傷を負う彼らはチェンバロの響く林の中の小屋でお互いをいたわっていく。
しかしそんな幸せな時間も束の間、厄介なことに瑠璃子は新田に引かれてしまう。新田と薫のあいだには自分など入り込めないような強い絆があるのは分かっているが、それでも気持ちを抑えられない瑠璃子は、なんとか新田を振り向かせようとするのだが……。
【読みどころ】本来は「やさしい訴え」のはずが、時に残酷に、時に醜く、時にしたたかに相手へ気持ちをぶつけていく背後には、常にチェンバロの繊細な音色が奏でられている。読後、ラモーのチェンバロ曲を聴くと、また違った感興が襲ってくるだろう。 <石>