「愛するいのち、いらないいのち」冨士本由紀氏
〈父は、ウンコ臭い〉
小説は、ぎょっとする一文から始まる。主人公は還暦を迎えようとする女性・文緒。92歳の父の介護に頭を悩ます日々を送っている。認知症と糖尿病を患いながら、島根で独り暮らしを続ける唯我独尊の父と、60歳を前に結婚し、無職の夫と横浜でつましく暮らす文緒。“遠距離介護”の苦労が生々しくつづられる。
「私の父が認知症だったんです。一緒に暮らして介護をされている方の比ではないと思いますが、遠距離介護も大変でした。仕事を休まなければいけない上、帰省するだけで数万円のお金がかかる。入居先を探してかけずり回ったり、後見人になる手続きをしたり。誰かの役に立つように、私の体験を書いておきたいと思いました」
人の言うことは聞かない、風呂には入らない、けれど、100歳まで生きそうな父。施設に入れることはできたが、経済的にもギリギリの状態で、親子の縁を切ろうという考えが文緒の頭をよぎる。
「自分に負担がかかると、親に対して冷淡な気持ちが芽生えてくるんです。自分の人生を邪魔されているようなね。そうした葛藤も書きたいと思いました。親子の縁を切る人もいらっしゃるし、そうせざるを得ない場面もあると思うんです。でも、育ててもらった情があると、なかなか切れるものではありませんよね。まして文緒は、父親に都会に出してもらって、自由に生活させてもらってきた。恩があるから、なおさら葛藤するんです」
父に振り回される文緒にとっての日だまりが、夫・和倫とのささやかな日常だ。だが和倫にも問題はある。かつては売れっ子クリエーターだったが、仲間に裏切られ、莫大な損をし、世間に忘れられた。
「ここも私の体験がもとになっていて、夫が人生最大のどつぼにはまった時期を見てきたんです。精神的なダメージやストレスがどれだけ人を痛めつけ、弱らせていくか。それもこの小説で書きたいと思いました。和倫も、それから文緒の父親もそうですが、昔の男の人はプライドが高いですよね。良い面もあるけれど、プライドによって滅びていくところもあって、怖いなと思います」
それでも〈彼には私しか、私には彼しか、残らなかった〉と文緒が言うように、2人の結びつきは深い。共に生きることのかけがえのない苦楽を、この小説は教えてくれる。
「結婚式の誓いの言葉ではないですけれど、良いときも悪いときも、健やかなときも病めるときも変わらず好きだというのが、人を本当に好きになることだと思うんです。喧嘩ばかりしていても、相手の根っこのところを信頼しているというのかな。そしてただ思うだけじゃなくて、何かしてあげたいと思う気持ち、花に水をやりたいと思うような気持ちが、愛情なのではないかと思います」
穏やかな老後を夢見ていた文緒だが、夫にがんが見つかる。たった1人の愛するいのちがなぜ失わなければならないのか。対して、父の強い生命力はいったい何のためなのか。生と死の現実を突きつけるクライマックスに、読者は引きずり込まれていくだろう。そして初めて知る、父の思い。
「私自身、父と夫を亡くして、たくさんの後悔があります。そうした悔いの気持ちが、この小説を書かせてくれました。今振り返ると、渦中は大変なんですけれど、慌てずに、捨て鉢にならずにこつこつ生きていれば、なんとかなるものなんですね。人生、影がないと光がわからないように、悩み苦しんだこともいつか自分のためになるのかもしれないと、小説を書き終えて思っています」
(光文社 1700円+税)
▽ふじもと・ゆき 1955年、島根県生まれ。広告制作プロダクション、広告代理店勤務を経てフリーのコピーライターとなる。94年「包帯をまいたイブ」で小説すばる新人賞を受賞してデビュー。著書に「圏外同士」「ひとさらいの夏」「勘違いしそうに青い空」など。