「忖度しません」斎藤美奈子著/筑摩書房
先ごろ亡くなった半藤一利はじめ、保阪正康や内田樹の言説に違和感を消せないのは、彼らが一様に天皇制肯定から出発しているためである。とりわけ平成の天皇を「リベラルな天皇」として評価する。
それに対して著者は伊藤智永の「『平成の天皇』論」(講談社現代新書)を取り上げ、「天皇個人の思想」が政治に及ぼす影響を封じる策が象徴天皇制だったのではないか、と批判する。「保守的な安倍政権VSリベラルな天皇」という図式を伊藤は強調するけれども、「リベラルな政権VS保守的な天皇」という逆の構図だったら、どうするのか?
著者は伊藤らの「無邪気な明仁礼賛論」に釘を刺す本として、原武史の「平成の終焉」(岩波新書)を挙げる。
そして、退位を表明した「おことば」について、それを発することで天皇が日本国憲法で禁じられた権力の主体になっていることが問題だという原の指摘に同意する。また、天皇のいう「国民」とは誰のことかが明確でないとし、次のような問題点を原に従って列挙する。
「天皇皇后は日系人の施設は訪れても〈外国人が集まる国内の施設や学校など〉は訪れていない。多くの福祉施設を訪れてはいるが、〈精神障害者を収容する施設〉も〈受刑者が収容された刑事施設〉も自衛隊関連施設も訪れていない。さらにいえば行幸先の公園などではホームレスが強制排除されている。天皇個人の意志がどうあれ、背後には『国民』とそれ以外を巧妙に区別、選別する論理が働いている」
こうまとめて著者は「天皇・皇后が心がけて訪れる人々は、いわゆる社会的弱者だ」と言う伊藤の論を、そんな単純な話ではない、と一蹴する。
「おことば」の中で中国や韓国への「深い反省」を示しても、「訪問先を見る限り、二人が加害の歴史と向き合っているとはいいがたい」と原に同意して著者は批判する。私もまったく同感である。
先日、淡谷のり子の叔父の社会党代議士、淡谷悠蔵の自伝めいたものを読んでいて、小学生時代、「将来、何になりたいか」と教師に尋ねられて、「天皇になりたい」と答えた者がいて、教師が困っていたという逸話にぶつかった。もちろん、明治の大日本帝国憲法時代の話である。それと日本国憲法を地続きにさせてはならない。
★★★(選者・佐高信)