大の里の由来はしこ名の常道 歴史に刻まれた「貴」の文字が物語る角界の盛衰
日体大時に2年連続アマチュア横綱となり、元横綱稀勢の里の二所ノ関部屋へ入門した中村泰輝のしこ名が大の里と決まった。師匠の現役時代に候補だったしこ名だという。中村は年寄名跡にあるため力士に使えないので、本名で取れない事情もあった。
画数の多い稀勢の里と違い、これ以上ないほどシンプルだ。スケールの大きさを表す、覚えてもらいやすい、かつての名力士にあやかる――どれもしこ名の常道である。
大正から昭和にかけて活躍した大関大ノ里は技の妙味を体現して「相撲の神様」と呼ばれながら、1932年に天竜らが改革を求めて起こした春秋園事件に巻き込まれ、激動の人生を送った。ちなみに当時はみんな「ノ」で、「の」「乃」と使い分けなかった。
初めてしこ名をもらった時の感じ方はさまざまだ。
69年夏場所、本名で取ってきた花田(元大関。横綱貴乃花の父)が貴ノ花と改名した。幕内を3場所経験して十両へ落ちたのを機に、師匠であり兄である二子山親方(元横綱初代若乃花)が心機一転にと改名を考えたのだが、本人がのちに明かした印象は良くなかった。
「最初は何だ、こんな女の子みたいなしこ名……と思ったよ」
「貴」は、親方の依頼を受けた日本姓名数理研究会主宰者の山口晴久さんが、画数と生年月日などから選んだが、確かに一般的な力士のイメージからは遠い字だった。しかし、悲壮感の漂う表情と細い体で超人的な粘りを見せる姿が、しこ名と一体化するのに年月はかからなかった。
「いずれ若乃花に」との声も根強かったが、最初は戸惑った本人が、山口さんに「先生、こんないいしこ名、変える必要ないですよ」と言ったそうだ。「兄は兄、自分は自分」との思いもあった。引退後、藤島部屋(のち二子山部屋)で貴ノ浪、貴闘力らを育て、次男の貴花田が貴ノ花を継ぎ、貴乃花となる。貴乃花部屋でも貴景勝、貴ノ岩らが関取になった。