元マネが語る 忌野清志郎との日々
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ブルースはまだ続いている。もう一度言おう、夢を忘れずに
2008年7月、忌野清志郎は「徹子の部屋」(テレビ朝日系)に出演。心ここにあらずの清志郎。収録時、清志郎はがんの転移が懸念されていたころだった。 RC時代と清志郎の晩年、スタッフだった片岡さ…
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高尾霊園の墓前に染み入る 二胡の「ブラームスの子守唄」
忌野清志郎は東京都下、高尾山の麓にある「高尾霊園・高乗寺」に眠る。2010年に墓が完成し、訪れるファンは絶えない。1980年代のRC時代と、ソロになった清志郎の晩年、スタッフを務めた片岡さんが語る。…
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「いつも応援してくれてありがとう」と素直なメッセージ
忌野清志郎が、ギャラをもらって人前で初めてライブをしたのは1967年、新宿の音楽喫茶「フォークビレッジ」だった。ベースのリンコと、2歳先輩の武田清一(のちに「日暮し」のVO&G)の3人で組んだバンド…
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人をコーフンさせる仕事だから自分がコーフンしないとダメ
1990年12月25日、3人になってしまったRCサクセション(サポートメンバーは春日博文・厚見玲衣)は、10年連続して行われた日本武道館クリスマスコンサートで幕を引き、無期限活動休止を発表。清志郎と…
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ツアーにこだわり…衣装50着&靴20足を特注コンテナで輸送
ロックバンドの楽屋は、好き勝手に騒がしくしているだろうというイメージがある。80年代、RCサクセションの衣装係兼楽屋まわり担当だった片岡さんに聞いた。 「楽屋はすごく静か。チャボさんのラジカセ…
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尊敬するJBを深化させた“マント・ショー”で客席盛り上げる
“ライブの王様”といわれたRCサクセションのステージは、プロフェッショナルに計算された中に、息を抜いた「笑い」の場面も盛り込まれていたという。 RCの絶頂期と2004年以降、衣装係だった片岡…
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趣味は温泉と…肝炎患ってから楽屋で熱心にお灸をしていた
1980年、新生RCサクセションは、体力の限り走り回りながらシャウトする清志郎のパフォーマンスが爆発的人気を呼ぶ。片岡さんがRCの所属事務所に就職した82年、清志郎は「い・け・な・い ルージュマジッ…
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優しい大家さんはガンコ婆に 実体験を巧みに詞をアレンジ
数々の名曲を生み出した忌野清志郎の作詞については、興味がつきない。名曲「スローバラード」(1976年1月)がシングルリリースされる前、74年から75年にかけて、RCサクセションは事務所のトラブルに巻…
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カラオケで「お富さん」を歌うと、ママが「ヘッタやなぁ」
80年代のRCサクセション絶頂期、全国ツアーでは1行程が2週間以上に及ぶこともざらだった。RC一行、総勢約25人中、「紅一点」の衣装係、片岡さんは当時をこう語った。 「清志郎さんは、何十年もバ…
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札幌で停電…金子マリの息子を背負いホテルの11階まで上る
1980年代、「ライブの王様」と称されたRCサクセションは、年間ライブ数100本を超える勢いで全国くまなく旅をした。 会場を取り巻く清志郎やチャボのコスプレをするファンは、ふくれあがる一方。…
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自転車で転倒し全治2カ月も…「骨折は名誉みたいなもん」
RCサクセションのヒット曲「雨あがりの夜空に」(1980年)のモチーフとなった愛車サニークーペの廃車後、清志郎が次に購入したのはポルシェだった。 「86年、ある写真週刊誌の企画として、清志郎さ…
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「オレは最初からわざわざ穴をあけた服は好きじゃなんだ」
忌野清志郎の画力は、「ぼくの好きな先生」(1972年)のモチーフとなった高校時代の恩師、美術の小林晴雄氏によって早くから認められていた。美大進学についても、周囲の誰もが疑っていなかったのではないか。…
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「新NY者」のロケでトラブル 清志郎の寛大さを垣間見た
活動休止直前のRCサクセションにとって、1989年とはどのような年だったのか。 88年にリリースしたアルバム「カバーズ」は、所属レコード会社からの発売中止という波乱で世間を賑わせた。89年1…
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温泉場のストリップの帰り道「しみじみしちゃうよなぁ」
清志郎のロックにかける情熱は、どこか求道者のようなストイックさがある。聴衆や権力にこびることなく、オリジナルの音楽を終生、追求し続けた。その隠し味とも言うべき、清志郎のセンスはどこにあるのか。 …
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会報でファンに本音「闘病生活が大変だとか思わないで」
2008年2月10日、「忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館」が開催された。 開演時間の18時過ぎ、清志郎を待ちわび、割れんばかりの手拍子が武道館に大きく響く。場内が暗転、「君を呼んだのに」(…
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「売れると、飲みたくもないお茶が出てくるんだよ」
RCサクセションが出演したNHK教育(現・Eテレ)の若者向け討論番組「YOU」の反響は凄まじかった。 これより以前、RCサクセションは「アサヒグラフ」(81年2月13日号)の表紙にも取り上げ…
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「約束」のささやくような甘い声は睡魔が原因だった?
1994年に設立された清志郎念願のプライベートスタジオ「ロックンロール研究所」(ロッ研)。そこに一番足しげく通ったのは、ミュージシャンの三宅伸治(57)だろう。 三宅は清志郎より10歳下。8…
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高校の同級生の三浦友和 清志郎にRC再結成を持ちかける
1991年が明け、RCサクセションは活動を休止した。RCの事務所「うむ」は解散、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立して次のステップに入る。 清志郎の勢いはここでも止まらない。清水建設のC…
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清志郎にRC再活動を訊くと…「すぐにはムリだ」と答えた
時代を席巻したRCサクセションもついに終焉期を迎える。87年2月、清志郎は初のソロアルバム「RAZOR SHARP」を発表した。 「当初、RCのロンドンレコーディングという話だったのですが、清…
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幼稚園で画期的ライブ お客さんの園児がノリノリで踊った
片岡さんは4年前の初夏、国立に今もある清志郎の実家を訪ねている。閑静な住宅街にある2階建ての古家。今や住人は親戚に代わっているが、よく手入れされた庭には藤棚があった。 「清志郎さんの私小説『十…