四代目襲名 三遊亭円歌大いに語る
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<10>襲名披露興行を全国で「故郷と地元に錦を飾れます」
1987年10月、歌之介の真打ち披露パーティーは帝国ホテルで開かれた。今回の襲名披露パーティーも帝国ホテルだった。 「真打ちの時は400人が出席してくれました。師匠が自分のお客さまを100人呼…
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<9>円丈師匠から「こぶ平に負けないパーティー」と命令が
きん歌(4代目円歌の二つ目時代の名)は、善兵衛荘の家賃を払うため、廊下を会場にした落語会を開いた。 「円丈師匠だけでなく実験落語会のメンバーの柳家小ゑん、立川談之助の兄さん方も出てくれて、廊下…
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<8>大家さんに「誰の弟子なの」と問い詰められとっさに…
歌吾(4代目円歌の前座名)は円歌夫人の和子さんに可愛がられた。ある時、こんなことを言われた。「あたし、一度流産してるの。もし生まれてたら、おまえぐらいの年頃になってたはずだよ」と。 「そんなこ…
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<7>前座時代に円丈師匠主宰の「実験落語会」に誘われて…
歌吾(4代目円歌の前座名)が入門した1978年当時、落語協会は前座見習の数が飽和状態で、正式な前座になるまで2年近くかかった。その間は師匠の付き人として雑用をこなす傍ら、新聞配達をして生活費を稼ぐ毎…
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<6>四ツ谷駅で通りがかりの郵便配達員に円歌の家を尋ね…
高校3年生の年に野間賢(4代目円歌の本名)が漠然と考えていたのは、「自分の書いた物で人を笑わせることができる仕事ができたらいい」ということだった。そんな折、週刊誌で3代目円歌のインタビュー記事を読ん…
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<5>落語への興味は笑福亭鶴瓶のラジオと枝雀の上方落語
歌之介こと野間賢は中学1年の3学期が終わった時、6年間過ごした鹿児島を離れて、母のいる大阪の紡績工場の寮へ移った。反抗期で祖母が持て余していたので、母が引き取ることになったのだ。 「大東市の住…
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<4>“ばっばん”は風邪でも腹痛でもヤクルトを薬の代わりに
歌之介こと野間賢は鹿児島県・大隅半島の南西部、肝属郡大根占町(現・錦江町)に生まれた。3歳の年に父親の仕事の関係で京都に移住する。小学校に入学してすぐ、酒癖がよくない父親の暴力が原因で両親が離婚。賢…
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<3>遺品の時計の修理に50万かかると知った時に師匠の声が
歌之介が師匠の形見分けでもらった遺品の中に、高価な物が2つあった。ひとつはクリソベリル・キャッツアイの指輪である。 「私の指に合うように、宝石屋さんでリングを継ぎ足して広げてもらいました。『ク…
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<2>時の総理が後援会会長だった落語家は師匠だけでしょう
昭和7年生まれの円歌が昭和4年生まれと偽っていたのはどういうわけか。その理由を、歌之介は春風亭正朝から聞かされた。 「正朝兄さんが言うには、『うちの師匠(先代柳朝)が前座になった時に、先輩の円…
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<1>通夜の後、師匠行きつけの寿司屋で飲んで泣いていたら
今月、落語界では久々の大名跡の襲名披露が始まる。三遊亭歌之介が4代目三遊亭円歌を継ぐのだ。円歌といえば、昭和30年代から「授業中」「浪曲社長」「中沢家の人々」などの新作落語で「爆笑王」の異名を取った…