蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
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(103)黄表紙の開祖は類をみない反骨の士
迫りくる寛政の改革の締め付け、耕書堂いじめ。しかし、そんな定信の意向が蔦重の反骨の焔に油を注ぐ。 ようよう傷の癒えた本屋、小粋な格子の着物姿、二つ折りの手拭いを月代に乗せ、髷の後で両端を結ん…
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(102)蔦重は満身創痍。京伝もお咎め
蔦重の、近頃めっきり肉づきがよくなった背に、とせが軟膏を塗りたくる。 「もそっと、やさしく」 「あたしのせいじゃないって。傷が酷すぎるんだもん」 枕元には、江戸を代表する戯作者に…
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(101)あとは山東京伝に任せよう
日本橋に近づいたところで駕籠が止まった。担ぎ棒を外した後棒が念を押す。 「旦那、本当にここでよろしいんでがすか?」 「うん。少し歩きたいんだ」 よいしょ。蔦重は妙に重い身体をずら…
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(100)寛政の改革で女髪結いが禁止
小粋だが地味ななりの女が、道具箱を隠すように抱えて耕書堂へ。帳場にいた蔦重、そっと小僧に命じた。 「中へ入って貰いなさい」 女は面を伏せ、足早に奥へ。すぐさま居間から、とせの小さな歓声…
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(99)歌麿が虫と草花を見事に活写
亭々たる背丈の男、どうと樹木が倒れたが如く、神田弁慶橋のたもとの草むらに突っ伏している。 男の右手には焼筆、眼の前に画帳、左手には天眼鏡。息を凝らし、眼も凝らし一心にみつめる先には虫。眼光叢…
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(98)今が桜花盛りの御殿山
盆と正月が肩を組み、いっぺんにきたのか。それとも弱り目に祟り目なのか。 「洪水が引いたと思ったら、矢継ぎ早にえれえこったぜ」 「何がどうして、どうなった。オレに黙って何をした」 …
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(97)定信の怜悧な横顔が歪む
江戸は小峰城の遥か南にある。若き藩主松平定信は窓辺から東都を遠望した。 「早晩、私は出府することになろう」 臣下の半蔵は膝行して藩主のもとへにじり寄った。 「ご下命がございました…
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(96)田沼意知が城内で刃を向けられ
蔦重が障子を引くと、喜三二と春町がこちらを物憂げにみた。両人の前には空になった膳が二客、ぽつんという感じで残っている。少し開けた窓から、六月のねっとりした風が忍び込む。 今夜、吉原の引手茶屋…
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(95)京伝鼻は艶二郎の代名詞
齢の頃は七つか八つ、男児が鼻歌まじりで絵を描く。 「雲がひとつに、柿の種ふたつ、京伝鼻の出来上がり」 どうだ、得意気に半紙をかざす。「艶二郎そっくり」「オレの方が上手」、周りの子どもた…
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(94)とせは素早く歌麿の襟をとり
とせは帳簿をつけ終わり、軽く伸びをする。 「戯作と狂歌、両輪が廻って千客万来、商売繁盛」 今夜も夫は酒宴、狂歌を集めたり、戯家の同士と次作の案を練ったりしている。 ふと背後に気…
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(93)上野忍岡でうたまるのお披露目
蔦重、皆の手に白い団扇が渡ったことを確かめた。 「今夜の酒肴いや趣向は“団扇合わせ”でございます」 鋏に絵具、筆の用意も怠りなく。蔦重、上座に鎮座まします南畝へ視線を送る。御大、ウムと…
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(92)黄表紙は歌麿に画を任せ
恋川春町は口へもっていきかけた盃を止めた。 「とうとう、ですか!」 蔦重、先にお酒をどうぞと目顔で示す。天明三年(一七八三)九月、蔦屋耕書堂は日本橋通油町への進出を決めた。通油町をいけ…
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(91)二匹目の泥鰌でも大きければ
夕暮れになると、耕書堂は妓楼に負けず江戸の文人墨客で大賑わいになる。 その日も、真っ先に顔を出したのは大田南畝。いつしか狂歌の頭領役が板についてきた。継ぎ接ぎ着物は今や昔、小洒落た衣装で粋人…
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(90)お上臈が困惑に身を染める
お上臈が佇んでいる。 雪の肌に海老茶の乳首、黒々とした叢、女体を彩る色の対比は鮮烈、柳腰から豊かに膨らむ尻の曲線が艶めかしい。 「そろそろ、終わりにしておくんなんし」 お上臈は…
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(89)申し出に南畝は眼をぱちくり
蔦重が南畝に差し出した土産、それは墨痕あざやかな筆致の狂歌だった。 「高き名のひゞきは四方にわき出て赤ら赤らと子どもまで知る」 詠み込まれた四方赤良は、南畝が狂歌で使う狂号、それ自体が…
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(88)仕舞い忘れの鯉のぼりが青空に
端午の節句は過ぎたのに、仕舞い忘れ、それとも面倒なのか、まだ鯉のぼりを青空に吹かせている家がある。 神楽坂界隈、蔦重は毘沙門天様の少し北を左、「相馬屋」なる紙問屋をみて地蔵坂をいく。目指すは…
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(87)遣手婆も目頭を押さえ
蔦屋耕書堂がお江戸をひっくり返した! 吉原の大文字屋市兵衛をはじめ妓楼の主は驚いた。 「客は大門の前で左に曲がって耕書堂へ入ってしまう」 三千余といわれるお上臈たちは我が事のよ…
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(86)当今、大先生といえば
大川に架かる両国橋を渡って回向院の手前が元町界隈、東都で指折りの歓楽街だ。その両国元町にある居酒屋に、若旦那風の男がちょくちょく顔をみせる。 静かに盃を傾けているが、陰気な酒ではなく、いつも…
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(85)戯作はうまい酒と同じ
グラリ、きゃっ。 猪牙舟が傾ぎ、とせの手をとった重三郎、口をついたのは流行の戯れ歌だった。 「みぎひだり猪牙は揺れども懸念すな本屋の大志忘るることなし」 とせもすかさず応じた。…
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(84)猪牙舟は吉原通いの遊客の足
重三郎は線香の煙の行方を万感の想いで追う。煙はまっすぐに立ち昇ったあと頭の上でたなびき、ゆっくりと消えていった。 墓前で手を合わせていた、とせが振り返った。 「小紫さんといろいろお話し…