蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
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(43)南畝の狂詩狂文集、序文源内
小紫が本を差し出した。 「重さんは御存知かえ?」 蔦重は貸本や細見の仕事にかこつけ、花魁の本間に上がり込んでいる。 もっとも水入らずというわけにはいかず、小紫付きの禿がこちらを…
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(42)葛饅頭も三日にあげずでは…
このところ、何だか義兄の機嫌がとってもいい。 ちょいと能天気なところのある次郎兵衛、何かというと向島へ行きたがり、やたらと葛饅頭を買い込んでくる。重三郎はボヤく。 「うまいけど、さすが…
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(41)次郎兵衛が待乳山聖天に参拝
吉原から日本堤を東へ半里(二キロ)、待乳山聖天で手を合わせているのは、吉原大門横の引手茶屋「蔦屋」を率いる次郎兵衛だ。 社殿を出た次郎兵衛、山谷堀へ踵を返すのではなく渡し船に乗った。銀波、金…
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(40)助六が吉原をそぞろ歩けば
仕事を終えた蔦重、大きな算盤を弾いて帳簿をつけている。 パチパチ。珠は柘植、枠と梁が黒檀の高級品、耕書堂の開店祝いに叔父が贈ってくれた。 「立派過ぎるんじゃ……」 「江戸をひっく…
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(39)ははアん。情婦から貰ったんだな
妓楼の内風呂、面格子の間から入る早春の朝陽が裸体を浮かび上がらせた。湯のせいで雪白の裸体が桜色に染まっている。 花魁は首筋から肩、胸乳へと糠袋を滑らせていく。 「少し、痩せいした」 …
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(38)オレらは蕎麦でもたぐるか
蔦重は吉原細見の表紙をやさしく撫でた。 「私が見違えるような冊子に仕立ててやるよ」 鱗形屋みたいな本屋に開板(出版)されているこの小冊子が不憫でならない。 蔦重は花魁小紫と交わ…
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(37)細見が山積みじゃないか
茶屋「蔦屋」の玄関、上がり框の隅、棚の隣に小さな座布団を敷き、蔦重はちょこなんと座った。「耕書堂」の主にして店員兼小僧、そして貸本屋。時には茶屋の下足番にも変じる。 「細見、ひとつ貰おうか」 …
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(36)火災のたび吉原は新規開店
蔦重は棚に並ぶ草紙や細見にハタキをかけながら、十八、二十一、二十二歳と三回も見舞われた火難を振り返る。 「吉原ってところは転んでも絶対にタダでは起きない」 叔父をはじめ吉原の皆々のした…
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(35)空が濃淡さまざまな赤に染まる
蔦重はじ~~っと棚を睨む。 おもむろに吉原細見を右へ。ちょっと違う。ならば左へずらす。でも、そうすると洒落本が目立たなくなってしまう気がする。 「本を並べるって案外むつかしい」 …
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(34)吉原の子女は蔦重はんの味方
突き出した盃に酒を満たしたのは、お目当ての花魁ではなく、お付の禿だった。 「クソッ」、鱗形屋孫兵衛、ヤケになって酒を干す。 孫兵衛は銀波楼の小紫を前にじりじりしている。 江戸の…
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(33)貸本屋が何の用だい
ぐいぐい、トントン、ぎゅっぎゅっ──蔦重は肩を揉み、腰を叩いたついでに膝の裏を強く押した。 仕入れ先の本屋が集まる日本橋界隈と吉原は片道一里。重い荷を担ぎ廓の中をくまなく二里は歩く。貸本屋稼…
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(32)改まりましたァ吉原細見
大文字屋の遣手婆かげろうが広げたのは「吉原細見」、妓楼と茶屋の地図、お上臈の源氏名から格、揚げ代まで細かに記した案内書だ。 かげろうが口を尖らせる。 「ロクな出来じゃないよ」 「…
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(31)吉原の全員がお得意様
吉原大門の板葺きの屋根、そのずっと上でお天道様が銀白の光を放っている。 「よいしょ」、重三郎は身の丈ほどもある葛籠を背負う。盛夏の陽光が葛籠に描かれた蔦屋の紋章を照らした。 巳ノ刻(十…
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(30)紋様は富士山形に蔦の葉に
絵師の北尾重政は頑丈そうな顎を撫でる。青髭がジャリジャリと音をたてた。 「貸本屋風情なんて思ってたらとても務まらねえ」 何より戯作の目利きでなきゃならない。つまらぬ本を担いで回っても商…
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(29)小柴は何れ菖蒲か杜若
へえーっ。重三郎は声をあげた。それに驚いたかのようにコロリ、コロコロ、焼筆が転がる。 「重政親分が本屋の息子だなんて知りませんでした」 「別に吹聴するようなこっちゃねえよ」 縁は…
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(28)いいね、謎めいた笑顔
重三郎、花魁の本間に入ったはいいけれど、息が詰まるやら弾ませるやら忙しい。やっとのことで大息をついた。 「小紫さん、きれいだ」 ぽっ。小紫は頬を染める。 むっくり。焼筆と呼ばれ…
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(27)襦袢の裾からチラリと覗く雪の肌
花魁道中は吉原の華。黒漆に深紅の鼻緒、三つ歯の下駄をしゃなりしゃなり、外八文字で歩けば、打掛から間着そして襦袢の裾が割れ、チラリと覗く雪の肌。 銀波楼の京藤は、待ち構えていた主人と女将に手を…
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(26)京藤お上臈御一行のお越し~ッ
本屋の「ほ」の字は何から始めりゃいい? いや、それだと違う意味になってしまう。絵草紙屋の「いろは」、基本の「き」を知りたい、こいつを考えなきゃ。 重三郎は箸と茶碗を持ったまま、飯を噛むのも疎…
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(25)叔父の慈愛が口中に広がる
重三郎は吉原大門を潜った。 つい数刻前、大門を出て馬喰町へ向かった時は勇躍、心弾み胸を張っていたのだが。帰りは落胆、心萎えて背中を丸めている。 「結局は駿河屋で働くしかないんだろうな……
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(24)与八の声が急に温かいものに
重三郎は湯飲みを手にした。 茶はすっかり冷めてしまっている。だが、興奮のあまり声を振り絞った喉にはうまく感じられた。 大手書肆の若主人、西村屋与八は渋々、重三郎の習作に眼を通している…