「帝国の祭典」 小原真史著
大阪・関西万博の開催まであと2年に迫った。万博のはじまりは1851年のロンドン。「万国の産業製品の大博覧会」が正式名称で、最先端の産業技術を誇る各国の出展物10万点が集められ、展示された。
出展物の半分は、世界の工場たる大英帝国の繁栄を世界に知らしめる内容となっており、万博は「帝国主義のショーケース」でもあった。
ロンドン万博に対抗するように開催された1855年のパリ万博の目的も、世界各地に植民地を抱えたフランス帝国の威容を国内外に印象付けることにあった。
植民地主義による航路や鉄道網の整備によって、万博の前提となるモノとヒトの大規模な移動が可能となり、ときを同じくして広まった写真術の影響もあって、万博は人々の異国への欲望をかき立てた。
団体旅行パックが誕生したのも、ロンドン万博がきっかけだったという。
そうした人々の遠方への欲望に応えるため、やがて万博では、遠い異国の集落や街路、建築物を再現して現地の人々や動物を動員や「展示」する施設「ネイティヴ・ヴィレッジ」(著者の命名)が設けられるようになる。
本書は、20世紀半ばまでの万博や地方の博覧会などで人気を博した、そうした「ネイティヴ・ヴィレッジ」における「人間の展示」に光を当てたビジュアルブック。
エッフェル塔の建設で知られる1889年のパリ万博では、植民地のパビリオン群とは別に、コンゴ村やニューカレドニア村、セネガル村、ジャワ村(写真①)などのネイティヴ・ヴィレッジが初めて屋外につくられ、来場者は植民地の人々の生活を間近に目にして、彼らとの会話を楽しんだ。
1897年のブリュッセル万博では、レオポルド2世私領地とされていたコンゴ自由国から267人ものコンゴ人が強制的に連れてこられ、会場の劣悪な環境の中での暮らしを余儀なくされ、7人が病死。こうした例はほかの万博でも枚挙にいとまがない。
日本のアイヌ民族の人々も「展示」された1904年のアメリカ・セントルイス万博では、コンゴから宣教師によって連れてこられたピグミー系のオタ・ベンガという少年に注目が集まる。儀式用にとがらせていた歯列が他の仲間よりも目立っていたからだ(写真②)。
ベンガは、その後、動物園のサル舎の中でも「展示」され、動物園を離れた後、各地を転々とした末に拳銃自殺したそうだ。
同じ、セントルイス万博ではフィリピンのイゴロット族が来場客の前で殺した犬を調理して食するというショーが熱狂を呼ぶ。
こうしたショーやベンガの尖歯は、彼らの獣性や原始性が好奇心を装った蔑視や嘲弄の対象となったからだと著者は指摘。西洋人にとって野蛮や未開とみなされるような習俗や儀式が、来場客のエキゾチシズムや優越意識を満たすアトラクションとして人気を博したのだ。
万博以前からある見せ物興行における人間の展示にも言及しながら、当時の写真や絵はがき、イラストなどさまざまな史料をもとに万博における「人間の展示」の実態を紹介。万博という世界最大級の祭典のもうひとつの顔を伝える。
(水声社 3300円)