「口述筆記する文学」田村美由紀著
「口述筆記する文学」田村美由紀著
滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」を執筆途中で視力を失い、長男の嫁・路が口述筆記をして書き継がれ完成させたことはよく知られている。偏屈な舅相手に慣れない文字を書いていく路の奮闘ぶりは芝居や小説に描かれている。本書は日本の近現代文学を対象に、口述筆記を行った作家の創作実践や口述筆記を枠組みとする作品を取り上げ、筆記者の多くが女性であることから、書く行為が代行されることとジェンダーポリティクスの関係も論じている。
最初に取り上げるのは谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」。晩年の谷崎は右手が不自由になったため、1958年以降ほぼ全面的に口述筆記に切り替えた。筆記を担ったのは京大の国文学研究室に勤めていた伊吹和子。谷崎はそれ以前にも複数の女性秘書を雇い、セクシュアルな役割も含めて自らの創作の糧としていた。
「瘋癲老人日記」は性的不能者の性生活をめぐる物語だから、口述者である谷崎が、筆記者に性的まなざしを向けていたことは予想される。一方の伊吹は、谷崎の筆記者としての経験を本に著しており、そこから〈書かせる〉〈書かされる〉双方の意識の違いが浮き彫りにされていく。
また、〈書かせる〉〈書かされる〉という関係から逸脱しているのが「目まいのする散歩」で夫・泰淳の口述筆記をした武田百合子だ。卓越した書き手であった妻の才能を認めていた泰淳は、口述筆記を通して百合子との協働的な作品を作り上げた。そこには病に倒れた夫への〈ケア〉の意味合いも含まれ、その典型が、兄の上林暁と口述筆記を行った妹の徳廣睦子の関係だ。家族のケアによって口述筆記が成り立つということは、馬琴・路にも当てはまる。
そのほか、大江健三郎、多和田葉子、桐野夏生の口述筆記を扱った作品にも言及し、口述筆記という文学の在り方、書くという行為の意味について多面的に光を当てている。 <狸>
(名古屋大学出版会 6380円)