「自称詞〈僕〉の歴史」友田健太郎著
「自称詞〈僕〉の歴史」友田健太郎著
詩人の北村太郎さんが、〈僕〉というのは〈しもべ〉という意味だから、自分はこの漢字を使わないといっていたのをよく覚えている。この自称詞としての〈僕〉という漢字はすでに「古事記」に出てきており、そこでは太郎さんがいうように、立場が下の者が上の者に対して自分を指す謙譲語として使われている。しかし、その後この〈僕〉は時代を経るに従ってさまざまな意味合いを有することになる。本書は、〈僕〉の歴史をたどりながら、この自称詞がその時代時代にどのような社会的意味合いをもっていたのかを考察している。
記紀に初めて登場した〈僕〉は、なぜかその後の平安時代から江戸の元禄期までほとんど使用例がないという。元禄時代に再登場した〈僕〉は、身分制度の桎梏(しっこく)を離れ学問への志を共有する「師友」という関係を表象するものだった。この用法を最も明確に示したのが幕末の吉田松陰だ。著者は松陰の全書簡を分析し、松陰の〈僕〉という自称詞と志士活動の関係を明らかにしていく。
明治に入ると、教育・学問や経済に携わる人たちなど、立身出世のダイナミズムを象徴するものとして使用され、大杉栄のように一貫して〈僕〉を使う書き手も現れる。そして、戦後を代表する〈僕〉の書き手といえば村上春樹だ。最新作「街とその不確かな壁」の分析を通じて、それまでは連帯の象徴としてあった〈僕〉が、社会から切り離された自由な自己、私的な世界を表現するものとなっていることを解き明かす。
長い間〈僕〉は男性の自称詞だと当然視されてきた。しかし、近年は若い女性の自称詞として使われることも多くなっている。最終章「女性と〈僕〉」で、著者は樋口一葉ら明治の女性作家から戦後の少女漫画など女性の視点から書かれた〈僕〉の用例を見ていく。
今後、ジェンダーの壁を越えて〈僕〉はどう変容していくのか。研究はまだ続きそうだ。
<狸>
(河出書房新社 1078円)