新田恵利
-
Wink鈴木早智子、新田恵利、岩間早織…芸能人が介護現場で人気の意外な理由は「コミュニケーション能力」の高さにあり
ヒット曲「淋しい熱帯魚」などのアイドルデュオ、Winkの鈴木早智子(55)が従事した介護職についてSNSでコメントし、話題である。 鈴木は2022年、都内の介護施設で働きながら介護初任資格(介護職員初任者研修)を取得して介護...
-
おニャン子「4番」新田恵利が淑徳大客員教授に就任「学生さんとこれからの福祉と介護を考えたい」
おニャン子クラブから、大学の教壇へ。淑徳大総合福祉学部に客員教授として招かれ、その準備にあたる新田恵利さん(55)。母ひで子さんを6年半の在宅介護の末、2021年にみとって以降、講演活動に当たってきた経験があらたなステージへとつなが...
-
新田恵利さん仕事と介護両立の6年半 最愛の母ひで子さんを自宅で看取り、胸中語る
仕事と介護を両立させ、この春、最愛の母ひで子さんを自宅で看取ったタレント新田恵利(53)。その6年半の泣き笑いを、著書「悔いなし介護」にまとめて話題だ。 新田流の心得のひとつとして書かれているのが「言いふらし」。「不満は本人...
-
元おニャン子新田恵利 実母の「介護とみとり」胸中を語る
仕事と介護の両立に励んで6年半、タレント新田恵利(53)が最愛の母ひで子さんをこの春、自宅でみとっていた。享年92。このほど四十九日法要を終え、その胸中を聞いた。 ■桜が満開だった3月23日の午後に… 「その日が近づいて...
-
元おニャン子新田、内海、立見の“巣ごもりコラボ”に癒やし
「長い長い、外出自粛生活。少しでも皆さんの心をいやすことができたら」と、新田恵利(52)がおなじ元おニャン子クラブの内海和子(53)、立見里歌(54)に呼び掛け、大ヒット曲「セーラー服を脱がさないで」を振り付けつきで披露する動画をSN...
-
おニャン子クラブ35周年「会員番号4番」新田恵利は今
フジテレビ系で「夕やけニャンニャン」が始まり、おニャン子クラブが「セーラー服を脱がさないで」でデビューした1985年から今年で実に35周年。約20年ぶりにステージに立つと決めた新田恵利(52)は今、何を思うのか。 ◇ ...
-
過去に戻れても…「おニャン子はやりません。違う人生を」
テレビではAKBに乃木坂、欅坂とたくさんのアイドルグループが活躍し、またNGT48の問題が大きく取り上げられたりしている。いつの時代も、形こそ違えど、アイドルがいる。 過去に戻れるとしたら、もう一度おニャン子になりたいか。そ...
-
現役アイドルへ「全部、月日が解決する。だから大丈夫」
年齢を重ねていくことの楽しみは、過ぎ去った時代の仲間との再会だ。あの頃が遠くなればなるほど、懐かしい。おニャン子クラブがアラサーになって再結成し、またステージに立つ日がくるなんて誰が想像しただろう。初期メンバーの14人で2002年に...
-
引退はマイナスだった…忘れ去られることは一番の致命傷
「1億って話が来てるよ」 事務所のスタッフから、とんでもない額のオファーを聞いた。宮沢りえさんの、若くて人気絶頂のときの写真集「サンタフェ」が社会現象になるほどの大ヒットして以降、二匹目のドジョウを狙おうと、出版社はこぞって女...
-
「芸能界に戻ろう!」それは辞める時より大きな決断だった
10代の頃、分刻みのスケジュールで眠る時間もないほど走り回っても、月給制で、給料はOLさんに毛が生えたくらいだった。 おニャン子クラブでは、グループの楽曲のほかにソロでも曲を出してもらったけれど、歌唱印税はとても少ない上、「...
-
二十歳の誕生日…たったひとつの“おめでとう”が欲しかった
おニャン子クラブの卒業は基本、スタッフが決めていた。私は18歳のとき。 「新田、次のコンサートで卒業な」 まさに天の声だ。高校を卒業し、母と兄と共に上京した年の夏休みのコンサートで全国をまわり、東京の最後の公演を秋にす...
-
「誰のおかげで飯食ってんだよ」同年代アイドルの怒声に…
埼玉の県立高校を卒業しブレザーの制服を脱ぐと、芸能事務所に入った。松崎しげるさんを筆頭に大場久美子さん、松本伊代さん、本田美奈子さん、少女隊ら先輩に豪華な顔ぶれが揃ったところで、勧められるがまま入り、契約書を交わした。最初は月給15...
-
ソロデビュー…愛川欣也さんからの花束に感情の糸が切れた
1985年、おニャン子クラブは毎週のように、メンバーが増えていった。渡辺美奈代ちゃん、渡辺満里奈ちゃん、工藤静香ちゃんらで、芸能界で生きていこうと本気で考えているのが伝わってきた。ごく自然に主力メンバーへとなっていく。 グル...
-
素人丸出しの私にとんねるずタカさんはよくしてくれた
おニャン子クラブは、さながら女子高だ。フジテレビの控室に集合すると、わいわい、がやがや、場所もないほどで、私はトイレで着替え、化粧していた。 食堂でサインを考えるように言われて、皆、見よう見まねで自分の名前を崩した。ノートで...
-
疲労と人間不信…父の死も重なりハワイの病院で迎えた元日
初めてのファンは、都営新宿線曙橋の駅前で私を待っていた。新宿区河田町にあったフジテレビ社屋へとつづく、細い坂道の階段を並んで歩きながら、楽しく世間話をした。それが数人になり、10人を超えて、商店街の人が何事かと驚く行列となっていった...
-
中3で父が病に倒れ…高校入学と同時にアルバイトを始める
私の生まれた1968年は187万人以上の子どもたちが生まれた。戦後のベビーブームほどじゃないにしても、住んでいた埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)は駅の両側にマンモス団地が並び、小学校は学区に7校、中学は1クラス45人で8組あった。 ...