疲労と人間不信…父の死も重なりハワイの病院で迎えた元日
新田恵利編<4>
初めてのファンは、都営新宿線曙橋の駅前で私を待っていた。新宿区河田町にあったフジテレビ社屋へとつづく、細い坂道の階段を並んで歩きながら、楽しく世間話をした。それが数人になり、10人を超えて、商店街の人が何事かと驚く行列となっていった。そして私が対処できる人数を、はるかに超えていく。
初期の人が後から来る人々を整理してくれたけれど、まだ所属事務所もなければマネジャーもいない頃だ。そんな存在すら知らない18歳の高校生だった私は家族を巻き込んでの、怖い思いをたくさんする。
埼玉の実家では、毎日のように表札が盗まれた。あまりに盗まれるから、そのままにしておくと、郵便局員から「何でもいいので、つけてください」と言われた。毎朝手書きで紙に新田と書いて玄関に貼っておくのが父の日課となった。
庭の植木鉢、傘、写真、通学用の自転車のサドル、そして自転車が盗まれた。父が亡くなった時の葬儀の席で、読経するお坊さんから「息子がファンなんで」とサインを求められた時は、がくぜんとし、人間という強欲な生き物に怒りを覚えた。