保阪正康 日本史縦横無尽
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軍内の手続き、しきたり、規則の内実…「この話は初めて話す」とMは何度も言葉を挟んだ
Mの証言を、改めて私の取材ノートからまとめるが、「この話は初めて話す」と彼が何度か言葉を挟んだことが、印象深かった。 例えばソ満国境などの守備隊には、月に1度か2度、軍医のチームが健康状態を…
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Mが田中角栄から感じとった「こんな戦争で死んでたまるか」という心理
合法的に軍内から抜け出す方法について、Mは声を潜めて語った。私はこの時まで、さらにそれ以降もこのような方法を詳細に語ったケースはほとんど聞いたことがない。それだけに衝撃を受けつつ、今も記憶の底に焼き…
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戦場を知る大阪の中小企業経営者Mは、なぜ田中角栄を支持したのか
田中角栄批判が渦巻いている頃(昭和58年前半期)、彼の後援会機関紙「越山」の投稿欄で、田中を激励している庶民の姿を取材した。その体験を語ることが、図らずも昭和史の断面を浮き彫りにすることにもなる。熱…
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田中角栄礼賛論の深層と戦争
あえて「言葉を失う」という表現を用いたが、ほぼ田中角栄と同年齢の「戦場体験者」には2つのタイプがあったからだ。むろん表向きの会話を交わしているだけでは、彼らも心を開かない。しかし私は東條英機の評伝を…
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田中角栄を応援する庶民を取材し、私は言葉を失った
田中角栄が東京地検特捜部に逮捕されたのが、昭和51(1976)年7月27日であった。この日の午前5時半にロッキード事件捜査本部の検事らに任意出頭を求められ、東京地検での取り調べの後、外為法違反で身柄…
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田中角栄の評伝をどのような視点で書くのか。私は気づいた
昭和という時代には32人の首相が誕生した。軍事と非軍事の時代、あるいは神権化した天皇と人間天皇の時代、さらには臣民と市民の時代、昭和20(1945)年8月を境に国家の存在も相反する理念の元で動いた。…
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海千山千の吉田茂は、はたしてすべてを知っていたのか
昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦の日、吉田茂の別邸に入り込んだ工作員Aは、組織の解体の後、故郷の姫路に帰った。すると9月に吉田から、一度訪ねてくるようにとの手紙が届いた。 以下、…
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陸軍中野学校出の工作員Aは吉田茂の前で涙した
吉田茂の別邸に書生として入り込んだAに対して、吉田は釈放されてから改めてよく観察したようだ。吉田の著作、証言、さらには自らの周辺雑記などを丹念に見ても、Aのことは一行も一言も残していない。吉田は60…
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吉田茂は和平主義者として逮捕 政治家生活で最大の勲章になった
東部憲兵隊司令官の大谷敬二郎と吉田茂の対決は、とにかく吉田を講和を目指す和平主義者とし、逮捕拘束した上で軍内の本土決戦派優位の体制を作ろうとしていた。しかし吉田も簡単にはその手に乗らなかった。たとえ…
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追いつめられていた軍部の本土決戦派と吉田茂の攻防
吉田茂の逮捕後の取り調べについて、吉田自身が戦後に著した「回想十年」などに詳しく書かれているので、裏話として語り尽くすほどの内容はない。だが近衛上奏文の内容を取り調べにあたった東京憲兵隊はしきりに知…
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帝国陸軍の意識は憲兵隊と中野学校では異なった
昭和20(1945)年4月15日の早朝である。憲兵隊の一行が大磯の吉田茂邸の玄関に入っていった。むろんAには事前情報など知らせるわけはない。それにAは憲兵の指揮下にあるわけではない。陸軍省兵務局の工…
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24歳の陸軍スパイと吉田茂に迫るXデー…大磯に工作班のほとんどが集まった
近衛上奏文の内容は、永田町のお手伝いのルートから漏れたらしいが、Aの手記を読むと天皇が重臣から話を聞きたいと言い出してから、陸軍首脳の焦りは高まった。なんとしても天皇に講和を説くような事態になったら…
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大磯・吉田茂邸にもぐりこんだ陸軍情報工作員の詫びと告白
大磯の吉田茂邸に書生として潜り込んだ情報工作員をAとして書いていくが、その入り込み方の手口も明かしている。Aは戦後になって吉田に申し訳なさを感じ、手記を残しておくことにしたようだ。同時に吉田に自分が…
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和平主義者・吉田茂を徹底的に監視した東條英機首相のやり口
近衛上奏文の内容は、実は陸軍側に漏れていた。近衛が、天皇に会う前日に、吉田の自宅(東京・永田町。他に大磯に別邸があり、所用がない時は大磯で過ごした)を変装姿で夜に訪ねている。2人とも陸軍の憲兵隊から…
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吉田茂はなぜ近衛上奏文で共産主義を利用したのか
近衛上奏文の前半は論理的に日本、ドイツの劣勢な戦況が語られている。いわば戦争の決着はついているという意味になる。ところが後半になると感情的に共産主義の陸軍内部への伸長の警告となる。次のような一節もあ…
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近衛文麿と吉田茂は上奏文で天皇を揺り動かした
吉田茂の評伝を平成に入って書こうと机に向かった時に、結局吉田をどう見るかと具体的に検証していくと、2つの柱を立てなければならないと気がつく。近代史では軍人の戦略、政略に反対だということ。そして現代史…
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「私に秘書官は務まりません」徹底的に軍人嫌いだった吉田茂の異質さ
昭和10年代前半に駐英大使を務めるのは、相当に心労の多いことであった。ヨーロッパではナチスドイツが軍事で周辺諸国に圧力をかける。日本の軍部はそのヒトラーと同盟を結んで、枢軸体制を固めようとしていた。…
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貴族趣味、軍人嫌い、権謀術数、英米史観…吉田茂という人物
吉田茂の評伝を書くにあたって、私は東條英機のような手法ではなく、独自の手法で取り組んでみようと思った。なぜなら何人もの政治家や外交官仲間、さらには官僚に話を聞いても全て大体の話が出ていることがわかっ…
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父を客観的に見る目 昭和の終わり頃に聞いた吉田茂の三女、麻生和子の証言
昭和の3つの時期(前期、中期、後期)を象徴する総理大臣は、前期が東條英機、中期が吉田茂、そして後期が田中角栄と私は考えた。昭和史に関心を持つ者として、この3人の評伝は書いておこうと思った。 …
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反省は敗北…東條英機という軍人には「反省」や「自制」はなかった
東條英機の論法は、主観的願望を客観的事実にすり替えろ、という意味でもあった。誰が見てもグウの音も出ないほど痛めつけられているのに、負けたと認めないのだから、最後は壊滅する以外にない。こんな高校野球の…