保阪正康 日本史縦横無尽
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東條英機が書き残していた手記から見えてきた「怖さ」
敗戦に至る最終段階で、かつて戦時指導にあたっていた東條英機は、どのような心境を書き残していたのか。いわば意外というべき、その内容について私たちは知っておく必要がある。同時に軍事指導者に国政の指導にあ…
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戦争継続派のクーデター計画に対する東條英機の本音を語る
東條英機元首相の周辺にはどんな動きがあったのか。昭和20(1945)年8月9日の第1回の御前会議のあと、軍内の本土決戦派の戦争継続を企図する将校が相次いで東條の自宅(東京・世田谷区)を訪ねていたと、…
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1945年8月15日に至る道筋を考える
少国民世代と涙、そして彼らへの一方的な戦時特攻教育について触れたが、本来の流れに戻って、再び昭和20(1945)年8月15日に至る道筋について、書いていきたい。 2回目の御前会議で、天皇はポ…
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少国民を愚弄した軍隊と教育の責任の取り方
少国民への特攻作戦での死の訓練は、当の子どもたちにどういう影響を与えたのか。作家の山中恒はその著(「子どもたちの太平洋戦争」)で、歪んだ特攻作戦も、学校教育の一環として行われれば純粋培養されることに…
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子どもを人間爆弾にしようとした帝国軍人の精神性
いくら国家総力戦といっても、まだ15、16歳以下の年齢層の子どもに、「神風が吹くから、必ず日本は勝つ」とか「天皇陛下は神である。君らは神に命を捧げよ」などの教育を行っていいのだろうか。あるいは本土決…
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生まれた時から戦争中だった子供たちの終戦
子どもたちが敗戦時にどのような心理になったか。とにかく軍部は戦争に負けると、男子は睾丸を抜かれ、子どものできない体にさせられる、あるいは南方で生涯奴隷として働かされると教え込まれ、女子は弄ばれ、世界…
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恐怖は戦争継続のバネ、国民を愚弄した帝国の軍部
物心がついてから戦争の時代を過ごしてきた少国民世代は、戦争でない時代を実は知らなかったというのである。作家の山中恒は、そう書いている。しかもこの戦争は孫子の代まで続く百年戦争だとも教えられていたとい…
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1945年8月15日、子供たちの目に涙は浮かんだのか
太平洋戦争の敗戦時、少年たちは泣いただろうか。このことを調べていくと、いわば大人たちの「涙」とは全く異なることがわかる。幕末、明治維新の時には子供たちはどんな思いで官軍と賊軍の戦いを見ていただろうか…
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玉音放送を聴いて涙しなかった鈴木貫太郎首相の心理
私が、なるほどと思った涙は、国務相の緒方竹虎の秘書官でもあった中村正吾(元、朝日新聞記者)の著作に書かれている涙である。中村は次のように書いている。 「(玉音放送を聞いて)陛下の一言一句に思は…
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自決した阿南惟幾陸相の涙の意味
8月14日の第2回の御前会議で、天皇のポツダム宣言受諾の確認を聞いた時に、出席者は誰もが一様に涙を流した。この涙は何だったのか。もっともわかりやすいのは軍人の涙だ。 例えば阿南惟幾陸相は御前…
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8月15日に泣いた人、泣かぬ人
政治、軍事指導者は、なぜあれほど泣いたのであろうか。かつて私は、戦後40年目の時に「敗戦前後.40年目の検証」という書を刊行したことがある(1985年、朝日新聞社刊)。その中で8月15日には果たして…
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御前会議における受諾派と拒絶派の論争
第1回の御前会議で、天皇の「聖断」が明らかになると出席者の誰もが涙を流して、その発言を聞いていたという。慟哭のあまり、椅子から落ちるものもいたというのだが、戦争終結がこういう形で終わることには、涙以…
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昭和天皇の「聖断」を読み解く
いわゆる昭和天皇の「聖断」とは、「私の意見というのは、外務大臣の申していることに同意である」との一言である。重要なことは、「私の意見は」とか「私はかく思う」と言った言い方ではなく、外務大臣の意見に賛…
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1945年8月9日に開かれた御前会議の「本質」
国策の最終決定のための御前会議は、8月9日午後11時50分に皇居の御文庫地下防空壕で開かれた。出席者は7人である。一応その名を列記しておくと、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津美治郎参謀総…
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広島原爆投下からの75時間で軍事指導者の資質が問われた
広島への原爆投下から75時間後、長崎にも原爆が投下された。この間、当時の政治、軍事指導者は、ポツダム宣言の受諾をめぐってそれぞれの立場で受諾(終戦)か拒否(戦争継続)かの論議を続けていた。今にして思…
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最高戦争指導会議は広島への原爆投下3日後にようやく開かれた
広島への原子爆弾投下のあと、トルーマン大統領もはっきりとこれは原爆であると世界に告げた。鈴木貫太郎首相や東郷茂徳外相はこの事実を、国民に伝えるべきだと主張した。しかし陸海軍の本土決戦派は「これは謀略…
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日本の敗戦に関わる私の6つの視点
広島への原爆投下は、日本の軍事的敗戦を明確にすることになったが、それでもなお聖戦継続を主張する軍事指導部は、改めてその責任を問われなければならない。 戦後の日本社会はその点が実に曖昧であり、…
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原爆投下へ、戦争継続を譲らなかった日米の強行派
結局、鈴木貫太郎首相は「これを黙殺する。聖戦完遂に努める」との発言をすることになる。まずこの発言が、結果的に誤解を生んだという言い方をされて、歴史的には第一の錯誤という言い方がされることになった。こ…
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鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を「黙殺するだけ」と答えた
穏健な訳語を用いた外務省訳のポツダム宣言は、天皇の元にも届けられた。外相の東郷茂徳は鈴木貫太郎首相の元にも訳文を持ってきた。13項目の文書のうち、最後の項目は次のようになっていた。 「我々は日…
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賊軍の系譜をひく政治家にとっての天皇
鈴木貫太郎が首相になって、終戦の道を模索していくのだが、ポツダム宣言が発せられるまでを第1幕とするならば、この間は鈴木にとっても、昭和天皇にとっても、軍部の強硬派といかに折り合いをつけるかが日々の仕…