保阪正康 日本史縦横無尽
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シーメンス事件で薩摩藩が一掃されることで英米強硬派が生まれた
結局、海軍が薩摩閥隆盛を終えたのは、皮肉なことに外国からの賄賂をめぐる事件に端を発していた。日露戦争の後に起こったシーメンス事件である。もともと海軍の近代化は、イギリスやドイツから艦船を買い入れて軍…
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賊軍出身で徹底的にいじめられた鈴木貫太郎の苦労
鈴木貫太郎は、太平洋戦争を終わらせた首相である。鈴木は慶応3(1867)年に関宿藩の藩士の家で生まれたが、この藩は久世家が治めていた。鈴木が生まれた頃は、久世家は大坂代官だったという。鈴木家は主要な…
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長州閥、薩摩閥の発想、あるいは賊軍的発想とは
賊軍的発想、あるいは手法とはどのような内容なのか。わかりやすくいうならば、むろんこれは明治維新時に薩長に抗して戦った藩が賊軍となるわけだが、確かに官軍、賊軍という言い方はいささか乱暴である。結局、薩…
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長州閥の官軍的発想の模範としての東條英機
陸海軍の藩閥勢力は、確かに昭和に入ると勢いを失っている。昭和6(1931)年9月の満州事変以降の首相を見たとき、陸海軍出身の首相は太平洋戦争終結時までに8人いるのだが、そのいずれも薩長出身でないこと…
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東條英機が始め、鈴木貫太郎が終わらせた戦争
これまで昭和の首相のそれぞれの時代の実像を見てきた。主にその役を果たせなかったタイプを取り上げて考えてきた。そこで最終的なまとめとして少し視点を変えてより大きな発想で「昭和宰相論」を締めくくっていき…
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シリーズ「伴食宰相」(26)「神の国」発言の森喜朗は村山談話に閣僚として同意していたはずではないか
首相が「使い捨て」時代の例として、昭和という時代を中心に見てきた。その中で昭和から平成にかけての首相の入れ替わり期をD群として、個別に見てきた。そのグループに入る森喜朗元首相についての「神の国」発言…
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シリーズ「伴食宰相」(25)「神の国発言」で社会を愕然とさせた森喜朗の登場
首相の失言、放言には2つのタイプがある。ひとつは首相にあるまじき常識外れの失言である。主に教養のレベルが問われる。麻生太郎元首相の漢字が読めないなどはこの系譜であろう。もうひとつは歴史観の内容である…
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シリーズ「伴食宰相」(24)権力に憑かれ晩年を汚した海部俊樹の政治遍歴
海部俊樹は、旧与党勢力から担がれて、そして自民党の社会党との連立政権に反対する反乱組の票を加えて、再び首相の座に就こうと試みた。これは政治的にはどのように表現すべきであろうか。55年体制の野党との連…
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シリーズ「伴食宰相」(23)古巣の自民党議員の支援を期待した海部俊樹の不透明さ
昭和から平成に移る過程で、13年間の間に10人もの首相が生まれている。この間をD群と評して、昭和のいくつかの時期の首相の「使い捨て」の実態を見てきた。ことD群に限れば、ここには宇野宗佑、羽田孜のよう…
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シリーズ「伴食宰相」(22)羽田孜はなぜ首相としてなんの実績も残せなかったのか
もし羽田孜首相時代が続いたら、どのような政策を行ったのだろうか。なんらかのこの国の骨格が変わることはあり得たのであろうか。正直に言えば羽田首相からは具体的な政策が浮かんでこない。それはなぜか。その経…
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シリーズ「伴食宰相」(21)小沢一郎や社会党と政治闘争した挙げ句に倒れた羽田孜内閣
D群の中から、あえてもう一人伴食宰相といわれても仕方ない人物を挙げるが、羽田孜がそれに該当する。今の岸田文雄首相は首相史の歴史を俯瞰すると、伴食宰相といわれかねないタイプなのだが、羽田はこの首相と肌…
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シリーズ「伴食宰相」(20)シベリア抑留経験のある宇野宗佑が背負い込んでいた3つの不運
宇野宗佑の生年、その経歴をみると、典型的な学徒出陣世代だということがわかる。この世代の戦死者は他の世代よりも多いのだが、それだけに生存して戦後社会で事をなそうとしたものには意地と責任、そして恨みを晴…
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シリーズ「伴食宰相」(19)宇野宗佑の首相就任はあまりにも不運だった
宇野宗佑首相は記憶にはほとんど残らない首相である。単に在任期間が短いというだけではなく、実績もない。むろんこんな短期間に何かひとつでも行うだけの余裕もなかっただろう。その点では宇野に同情すべきところ…
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シリーズ「伴食宰相」(18)在任期間だけで総理の力量は問えないとも言えよう
歴代首相の力量を問うにはさまざまな尺度がある。あえてその尺度を私なりに解釈するならば、「一定の在任期間」「主要政策を実行」「退陣の美学」といった3条件などは尺度になりうるであろう。むろんこのほかにも…
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シリーズ「伴食宰相」(17)村山富市は連立政権により図らずも政治家のあり方を示した
村山富市首相や野坂浩賢官房長官らが、その職を離れて回想録を著しているが、いずれも自民党内のハト派への関心を示している。野坂は村山の側近として自民党の指導層と何度か交渉を行っている。野坂は「自民党の良…
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シリーズ「伴食宰相」(16)村山富市は社会党の政策を捨て、3つの信念を歴史に刷り込んだ
村山富市首相が伴食宰相にならないでいるのは、言うまでもなく村山自身が度胸のある政治家であったこともあるだろう。しかし前回に述べたように、社会党の支持層は大体があの戦争をどのような形であれ体験した層の…
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シリーズ「伴食宰相」(15)自社さ政権を生んだ村山富市、村山を支えた自民党政治家
戦後社会にあって、社会党の役割はつまりは2つに限定されてきた。ひとつは冷戦下で社会主義陣営にくみするのは嫌だけれども、戦争反対、護憲の旗に引かれていた層、もうひとつは社会主義そのものへの共鳴、共感か…
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シリーズ「伴食宰相」(14)社会党委員長・村山富市の連立政権を支えた「戦争体験共有世代」
D群の中の村山富市首相も伴食宰相とはいえない。何しろ55年体制の与党と野党が連立政権を組んだのである。この事実は戦後日本の姿を解析するときの重要なヒントを与えている。つまり東西冷戦下の日本は巧妙な姿…
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シリーズ「伴食宰相」(13)祖父・近衛文麿を超えることができなかった、祖父譲りの細川護熙
細川護熙首相の清潔なイメージは、政治とカネにまつわるどのようなエピソードも拒絶する空気を生んでいた。実際に取り組むべきテーマは多かったのだが、やはり政治改革が重要であった。それはつまりは選挙制度の改…
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シリーズ「伴食宰相」(12)近衛文麿の孫である細川護熙総理への期待の末路
細川護熙と村山富市の2人の首相は、伴食宰相というわけにはいかない。なぜなら2人は、首相のポストに就いたということ自体が歴史的意味を持ったからだ。D群の中のこの2人について歴史的な意味を考察しておこう…