伝説のストリッパー 一条さゆりとその時代
-
<46>順調に歩みかけたが…「酒と男」で狂い始めた歯車
初代一条さゆりは出所後、大阪・末広町に開いた店が大当たりし、歌手としてレコードデビューも果たした。順調に歩みかけたように思えた人生は1976(昭和51)年になると、早くも歯車が狂い始める。酒と男が原…
-
<45>“特出し”への期待を裏切った復帰公演「最後にしたい」
1976(昭和51)年はロッキード事件で日本の政治、社会が大揺れに揺れた年だった。2月4日、米上院外交委員会の公聴会でロッキード社が、航空機を売り込むため工作資金を日本などに流したと発表したのが発端…
-
<44>一条は忠告に耳を貸さず…「恩人」加藤重三郎と喧嘩に
初代一条さゆりは1976(昭和51)年2月、自身の半生を描いた歌「いのち花」でレコードデビューしている。A面は「いのち花」、B面の「扇町のおんな」は彼女の店(大阪・扇町)のビルのオーナー、加藤重三郎…
-
<43>一条さゆりを逮捕した刑事も大阪の彼女の店の常連に
出所した初代一条さゆりは1975(昭和50)年11月、大阪・末広町のビルで和風スナック「一条」とクラブ「ぎおん」の2店を開いた。店は客であふれた。 とにかく一条の話は客に受けた。ストリップの…
-
<42>同時に開店した和風スナックとクラブが大繁盛
「一緒に芝居を」という俳優、小沢昭一からの誘いを断った初代一条さゆりは出所(1975年8月12日)翌日から、昼間は地下鉄の清掃、夜はミナミのアルサロで働いた。3カ月で160万円を貯め、手持ちの40万を…
-
<41>芸能界への興味失い…小沢昭一のオファーに「ノー」
和歌山刑務所に服役していた初代一条さゆりは1975(昭和50)年8月12日、出所した。刑務所を出ると真っ赤な太陽が照りつけていた。この日の和歌山地方は最高気温が31・3度。一条は保護司からもらった青…
-
<40>クチナシの季節が終わるころ和歌山刑務所を出所した
1975(昭和50)年の夏、プロ野球では広島東洋カープの「赤ヘル旋風」が吹き荒れていた。前年まで3シーズン連続最下位のチームが、生まれ変わったように勝ち進む。7月19日、甲子園球場でのオールスター第…
-
<39>「家族は誰も面会に来なかった」と寂しそうにうそを
1975(昭和50)年4月は、世界の目がベトナムに注がれた月だった。北ベトナム軍がサイゴンに迫り、23日には米大統領のフォードが「米国にとってインドシナ戦争は終わった」と演説している。 こう…
-
<38>獄中から「りっぱなひかえめの女性になって帰ります」
昭和天皇が戦後、初めて外国を訪問したのは1971(昭和46)年9~10月である。訪問先は公式がベルギー、英国、西ドイツの3カ国、非公式がデンマーク、オランダ、そして休養先がフランス、スイスだった。 …
-
<37>刑務所で服役中、パンくずをスズメにやり心を和ませる
女子刑務所は全国に10ある。和歌山刑務所はその一つで、古くはゾルゲ事件や徳島ラジオ商殺しの受刑者も服役していた。 刑務所が作成したしおりには、「女子受刑者であることから、情緒の安定性を養い、…
-
<36>ガシャーンって音を聞いて「私の人生も終わったなと」
公然わいせつ罪に問われた初代一条さゆりは、最高裁で上告が棄却されると、異議の申し立てをした。それが棄却されたのが1975(昭和50)年1月18日。これで一条の実刑(懲役1月)が最終確定している。 …
-
<35>わいせつ性巡り実刑「懲役1月」の知らせにへたり込む
ストリップのわいせつ性を巡り最高裁判所に上告するケースは珍しい。一条は何とか、実刑だけは避けたかった。すでにストリップから身を引いている。これからは、こつこつと働き、落ち着いた日常を送りたかった。一…
-
<34>特別な存在に…愚連隊のリーダー「ゲン」との出会い
公然わいせつ罪に問われた初代一条さゆりは、最高裁判決(1974年12月)を受ける直前、ある年下の男性と出会っている。 プロ野球では巨人の王貞治が史上初の2年連続三冠王に輝きながら、チームはV…
-
<33>大阪高裁は控訴を棄却 作家・田中小実昌の証言も不発
わいせつを巡る訴訟では、たびたび作家や映画製作者が証人になってきた。永井荷風の戯作「四畳半襖の下張」訴訟では、丸谷才一が被告(野坂昭如ら)の特別弁護人になり、証人には五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介…
-
<32>芸を裁くなら実態を…検察も了承した「法廷での実演」
わいせつか芸術か。性を表現した文学や演劇、映画を巡っては、しばしば論争が起きてきた。 英作家、ローレンスの小説「チャタレイ夫人」、武智鉄二監督の映画「黒い雪」、永井荷風の戯作「四畳半襖の下張…
-
<31>店を失い残った借金 1本50円のトコロテンを売り歩く
控訴審に入るころから、一条は経済的に困窮していく。中学もまともに出ていない。手に職といえば、ストリップ芸のみ。それを使うことは許されない。大阪・釜ケ崎の安宿(ドヤ)に暮らしながら、さまざまな仕事をし…
-
<30>「無罪」主張の材料に使われた日本人海外旅行者の増加
年明けの1973(昭和48)年1月、ベトナム戦争が終結する。同じころ、日本の芸能界では、美空ひばりの実弟が暴力団幹部だったことが発覚し、全国各地で「美空ひばりショー」のボイコットが続いた。戦後の芸能…
-
<29>主張を百八十度転換した控訴審では行為そのものを否定
日中国交正常化という「実績」を力に首相、田中角栄が打って出た総選挙(1972年12月)で自民党は安定多数を確保した。金脈問題で田中政権が揺れるのは2年後である。 投開票の6日後、初代一条さゆ…
-
<28>ロマンポルノの出演作が影響を与えた「仁義なき戦い」
ヤクザ映画の傑作「仁義なき戦い」が封切られたのは1973年1月13日である。公然わいせつ罪に問われた初代一条さゆりが、1審で実刑判決を受けた直後だった。 一条が行く末に不安を感じていたころ、…
-
<27>実刑判決で悪化した「内縁の夫」との関係
日露戦争中の1905年、大阪・西成の天下茶屋には捕虜収容所が置かれていた。戦争が終わり11年になると、跡地は清新な住宅地に生まれ変わった。碁盤の目のように通された道路には梅、松、橘、桜、柳といった樹…