立川談幸 大いに語る
-
<10>立川談志没後10年「うちの師匠は希代の落語家だったと思います」
落語芸術協会の理事で、以前この欄に登場した桂竹丸は、談幸の入会を歓迎しているひとりだ。「寄席の大きな戦力になってます」と喜んでいる。 落語芸術協会の顔付け(寄席の出番表)の中に、立川流と5代…
-
<9>私も師匠として幹部の師匠方と披露口上に並んだ時、夢のような感じでした
落語芸術協会に移籍した談幸は、最初から寄席に10日間出られたわけではない。寄席の出番表には載らない「代演」、つまり休んだ落語家の代わりを務めることから始めた。そうした段階を踏んで協会員として認められ…
-
<8>談志師匠の墓前に報告した時「いいんじゃないか」と言ってくれたような気がしたんです
2014年、談幸は60歳になった。還暦を迎えると、たいてい己の行く末を考えるものだ。 「私も考えました。師匠は75で亡くなった。年齢的に、ちゃんと高座を務められるのは、あと10年から15年じゃ…
-
<7>小坂憲次さんは生きてれば政府の要職に就いていたでしょうに残念です
2004年、談幸に初めて弟子が入る。松幸という前座名を付けた(現・幸之進)。その翌年、談志一門の快楽亭ブラックが、ギャンブル依存症による借金トラブルを起こして立川流を除名された。それにより5人のブラ…
-
<6>「談幸は付き合って損のない数少ない落語家であります」
1987年5月、談幸は真打ち昇進披露興行を寄席若竹と深川江戸資料館小劇場で開いた。 「師匠は披露口上で、私の前座時代のことを『完璧であった』と褒めてくれました。最後に、『談幸は迷惑をかけるよう…
-
<5>結婚した年に談志師匠から「おまえ、真打ちになっちゃえ」と…
1983年に起こった事件の発端は、落語協会が実施していた真打ち昇進試験である。2人の弟子が不合格にされたことに納得できない談志は、一門を引き連れて協会を脱会すると言い出した。 「その頃、二つ目…
-
<4>改名のお伺いを師匠に立てたら「話す幸せで談幸。いいじゃないか」と…
談幸(前座名・談吉)が恵まれていたのは、当時の落語協会に名人上手の師匠が大勢いたことだ。 「談志と共に四天王といわれた春風亭柳朝師匠、古今亭志ん朝師匠がご健在で、稽古をしていただきました。先代…
-
<3>広い部屋に2人きり…「師匠と同棲してます」と言って笑いを取ってました
談幸が入門して1年半後、談志一家が練馬区南大泉の一軒家に転居することになった。 「西武新宿線の武蔵関駅から歩いて20分。当時は近辺が畑ばかりで、寂しいところでした。10部屋もある広い家なので、…
-
<2>気を使うにも「しなさ過ぎるのは論外だがし過ぎるのもダメ」
昭和20年代に生まれた落語家は、談志が昭和40年に著した「現代落語論」を読んで感化された者が多い。談幸もその一人である。 「大学3年の年、就職を決める段になって考えました。就職すれば大好きな落…
-
<1>「あの夜から、もう10年経ったんですねえ」
立川流家元、立川談志が没して、11月で10年経つ。門下の弟子たちは、それぞれ独自の活動をしているが、立川流を脱会して落語芸術協会に入会、寄席に出演しているのは立川談幸と、その弟子たちだけである。談志…