<1>「あの夜から、もう10年経ったんですねえ」
立川流家元、立川談志が没して、11月で10年経つ。門下の弟子たちは、それぞれ独自の活動をしているが、立川流を脱会して落語芸術協会に入会、寄席に出演しているのは立川談幸と、その弟子たちだけである。談志の信頼が厚かった談幸に、談志の思い出、移籍の経緯などを語ってもらった。
「10年ひと昔と言いますが、早いもんですねえ。亡くなったとわかった日がついこの間のことのように思えます。11月23日に、師匠が死んだという噂が流れ、デマだと思ってたら弟弟子から電話があって、2日前に亡くなって、荼毘に付したという。弟子はどうして死に目にあえなかったのかと思いました。でも、後になって考えてみると、ご家族の気持ちもわかる。想像するに、師匠の衰えた死に顔を弟子たちに見せたくなかったんじゃないかって」
高校時代から談志ファン
談志が弟子たちを集めて最後に対面したのは、亡くなる3カ月前、行きつけの銀座のバーであった。当時、立川流の顧問を務めていた私もその場にいた。喉頭がんで声帯の除去手術をした談志はしゃべれなかった。
「筆談でしたね。『師匠、弟子たちに何かお言葉を』と頼んで、なんて書くのかと、弟子一同がメモ用紙を見ていたら、『オマンコ』と書いたんで、一同がバカ受けしたわけです。あれは師匠の精いっぱいのサービスだったんでしょう」
しゃべれなくても師匠は変わらない、と皆が笑ったものだ。
「あの夜から、もう10年経ったんですねえ」
談幸は遠くを見るような目をした。
1954年、新宿区西落合に生まれた談幸は、高校時代から談志ファンで、都立北園高校に在学中、落語研究会に入部して、談志の得意ネタを口演していたという。1浪して明治大学商学部に入学すると、当然のように落研に入った。
「三宅裕司さんは卒業した直後でしたけど、2年先輩に後の兄弟子、談之助がいて、同期にコント赤信号の渡辺正行と小宮孝泰、それと、後の弟弟子、志の輔がいました」
同じ時期にこれだけの演芸人が在籍したのは珍しいケースだ。
「落語会があると、先輩たちが談志の得意ネタをやるので、私はできなかった。そんなこともふくめて、学生なりに落語の世界に浸ってました」 (つづく)
(聞き手・吉川潮)
▽立川談幸(たてかわ・だんこう) 1954年、東京生まれ。本名・高田正博。78年、明治大学卒業後、立川談志に入門。前座名「談吉」。82年、二つ目に昇進し「談幸」に改名。83年、落語協会から脱退し、落語立川流が発足。87年、家元である談志の認証により真打ち昇進。2014年、立川流を退会し、15年に落語芸術協会に入会。