保阪正康 日本史縦横無尽
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江戸鎖国時代は270年、日本近代史はまだ156年
今、歴史上の時代区分として日本近代史が昭和20(1945)年8月15日に終わり、それ以降から現在までをさしあたり日本現代史と称する見方が一般的だ。明治元年以降を日本近現代史と評する言い方もある。いず…
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近代史における軍人教育の最大の欠陥
清瀬一郎の意図はどこにあったのだろうか。私は東條英機が書き残した手記に触れて、すぐに幾つかの理解にたどり着いた。むろん推測交じりの分析になるのだが、まず清瀬は、東京裁判では敗戦の段階で、東條はクーデ…
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戦争を始めた指導者によって戦争は終わらない
二重構造の影の部分、つまり反乱の青年将校は現役の指導部の反対で、クーデター計画が頓挫した場合、影の部分を表に出す意図があったのだろう。それがもうひとつの大掛かりな計画であったように思える。しかしこれ…
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二重性を持っていたクーデター計画
昭和天皇は、東條英機を信用しなくなったことを直接口にしていない。その理由は、戦後すぐに側近たちに語りおろした「昭和天皇独白録」を読むとある程度うかがえる。天皇は、東條がいくつものポストを抱えて、そし…
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天皇を巧みに利用してきた東條英機
重臣として、天皇に意見を述べた時の東條英機の発言内容は、すでに聖慮が明らかになった以上、私は意見を控えると言いながら、その実、現状でこの宣言を受け入れることには反対の内容を伝えている(8月10日)。…
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東條英機話法を読む
東條英機論をもう少し続ける。なぜなら太平洋戦争を担った軍事指導者の性格は、この戦争の帰趨に多くの影を落としているからだ。昭和20(1945)年8月10日から14日までの5日間は、この戦争の終結に至る…
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承詔必謹の側に擦り寄った東條英機の狙い
8月15日のクーデターは、二重構造になっていたというのが、私の見立てである。その構造について、すでに大枠は理解できたであろうが、中堅将校たちは、一の矢を放っていながら、それが実らないとわかると強硬派…
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クーデター強硬派陸軍中堅将校たちの暴走
第2回の御前会議、それに続く閣議と、8月14日(昭和20年)は過ぎていったのだが、このクーデター案は着実に実行に移されていった。案の5項目は、陸相、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の4人が案に賛成…
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第2回御前会議に向けたクーデター派の攻防
このクーデター案が、陸相の阿南惟幾に説明されたのは、13日の午後9時である。第1回の御前会議と第2回の御前会議の間、つまりこの間4日間ほどあるわけだが、聖慮を含めて鈴木貫太郎内閣は、敗戦を受け入れる…
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陸軍将校のクーデター案の二重構造を解剖する
陸軍省の中堅将校が考えていたクーデター計画の骨子は、二重構造になっていたかのように見えた。つまり現役の阿南惟幾陸相に了解を求める案と、それが成功しなければ別な人物を推して戒厳令を敷く軍事政権を、とい…
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クーデター派の担ぎ出しに東條英機は何を思っていたのか
東條英機を担いで本土決戦に持ち込もうとするクーデター派の構想は、東條の性格をよく見抜いていた。東條の戦争観は2点に絞られた。第1点は、国民の戦争意欲は全く衰えてなく、青年は一身を捧げることを喜んで死…
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「東條元首相手記」の発見により長年の疑問は氷解した
あえて東條英機を敗戦時にはピエロの役割を与えられていた、と私が言う理由は、ある構図が理解できれば、なんともわかりやすい。その構図こそ、今なお伏せられているクーデター計画、ないし軍事政権による聖戦完遂…
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次第にピエロになりつつあった東條英機
東條英機の元に定期的に通って軍内外の情報を報告していたのは、参謀本部作戦部の戦争指導班の班長である種村佐孝である。種村は東條派の軍人というより、むしろ東條のような感情的なタイプを嫌う側にいた。しかし…
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東條英機を担いだ軍事クーデターの深層へ
東條英機を担いでの軍事クーデターは、一定の構想のもとに計画が進められたのではなく、陸軍省軍事課の中堅将校を中心に想が練られ、そしてそれぞれがバラバラに動きを進めたというのが、どうやら事実と言っていい…
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鈴木貫太郎に執拗に面会を求めた東條英機
昭和20(1945)年8月15日を軸にして、ポツダム宣言の受諾反対、聖戦完遂(本土決戦)という軍事政権樹立の構想は、結局表に出ることはなく、歴史の闇の中に消えていった。私はこのことについて歴史上の形…
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「終戦秘史」に詳細に描かれ敗戦前後の内幕
近衛師団の参謀の何人かが、陸軍省軍務局の将校と連携をとりながら、クーデター計画や録音盤奪取を企図していたとみることができる。当初これらの事件を比較的細かく著した書として、下村海南著「終戦秘史」などが…
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玉音放送録音盤強奪事件を再考する
ここでもう一度、敗戦時のクーデター事件、いわば録音盤奪取事件に触れながら、実は語られているよりも大規模な事件だったのではないか、との話に戻ろう。いわばクーデターの第1段階、第2段階だったのではないか…
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7006収容所で行われた“特別教育”
シベリア収容所の一般兵士の間で、共産主義教育はどのような形をたどったかについては、前回、ある光景を紹介した。しかしこういう光景とは別に、もうひとつ別な視点で確かめておくべき光景がある。その点について…
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シベリア収容所での思想教育
スターリンのもくろみは、北海道進駐を諦める代わりにシベリアに日本人将兵を送り込み、捕虜として使役を科すことだった。と同時に、60万人をはるかに超えるその捕虜たちに、共産主義教育を施し、日本に送り返し…
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中央官僚が注目した瀬島龍三の法廷
瀬島龍三が東京裁判で証人として出廷したことは、実は戦後の中央官庁の若手官僚たちからも注目されていた。というのは戦前の超エリートが集まる大本営作戦部の参謀が、法廷でかつての敵国であるソ連の側に立って、…