保阪正康 日本史縦横無尽
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光クラブ事件(6)感情を捨てた山崎晃嗣の「復讐」
東大に復学した山崎晃嗣は、学徒出陣前の学生とは全く別人のような振る舞いに出ることになる。上官たちに体よく利用された怒りを、自らの人生で復讐していくという形をとる。東大生としてとてつもなく壮大な計算を…
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光クラブ事件(5)“天皇の軍隊”の酷い振る舞い
軍内のリンチで亡くなったAについて、山崎晃嗣の受けた衝撃をKさんはさらに補完して語った。それによると、Aの父親は都内のある地域の博徒として有名な人物だったという。博徒といっても街の秩序を守るタイプで…
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光クラブ事件(4)学徒出陣組に対する下士官の嫉妬といじめ
光クラブの山崎晃嗣が学徒として入隊したのは陸軍の主計将校を養成する部隊であった。主計将校として、それこそ戦争末期であったから2カ月とか3カ月の教育を終えて、すぐに部隊に派遣されていく。まず山崎はこの…
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光クラブ事件(3)東條英機首相兼陸相が決めた学徒出陣の罪深さ
光クラブを経営し、東大生の高利貸として名を馳せた山崎晃嗣は、自らに用意されていた順調な道を捨て、社会に復讐を企てるような試みを行ったのはなぜなのか。戦後社会の価値紊乱の世界で、あえて汚名を浴びるよう…
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光クラブ事件(2)おとなしくて真面目だった山崎晃嗣を変貌させた軍隊生活
私は、戦後史の観点から、光クラブ事件に関心を持ち、この事件、事象を調べて、ノンフィクション作品として書いてみたいと思ってきた。もう20年ほど前になるだろうか、角川書店の編集者であるF氏から、早く書い…
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「光クラブ事件」の山崎晃嗣とは何者だったのか
戦後社会の青年像は、戦争による価値観から、一気に全く異なる価値観の世界に生きる姿にと変わった。昨日まで「国のために命を捨てろ」と生命否定の論理を日々教えられた。それが今度は逆に「命は尊い。大切にせよ…
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戦後混乱期、見捨てられた戦災孤児たち
ヤミ米やヤミの食糧に手を出さずに餓死する人がどの程度いたのか、はっきりとした数字は不明だが、戦災で両親を失い、家屋も崩壊したために、帰る家もない子供たちの数もまた不明であった。特に悲惨なのは、疎開し…
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悪法のため餓死を選んだ東京地裁判事・山口良忠の悲劇
国の配給制度だけを頼りとして、ヤミで一切の食糧を入手しないで、どれだけ生存が可能なのだろうか。それが実際に裏付けられたのが、昭和22(1947)年10月11日に餓死した一判事のケースになるだろう。む…
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敗戦直後の日本で始まった餓死との闘い
太平洋戦争の敗戦直後、戦争は終わったという見方ですぐに平和で、安定した社会が戻ったように考える向きもあるが、それは大間違いだ。食べ物がないだけでなく、住む家もない。着るものとてない。私たちが知ってお…
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戦時下が生んだ小平義雄の残虐な連続暴行事件
小平義雄の犯罪が最初に明らかになったのは、昭和21(1946)年8月17日のことである。東京・港区の寺の一角で若い女性の死体が発見された。衣服を脱がされての裸体であった。警察の調べでは、死後2週間ほ…
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小平義雄は食糧難を利用して殺人を重ねた
戦後社会の犯罪は、むろん特徴を持っている。ひとつは、価値観の逆転に翻弄された青少年の大胆なケースである。のちに紹介するが、アプレ犯罪などとも評された。アプレというのはフランス語の「戦後」を意味するア…
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戦後の犯罪は空腹からくる絶望感が生んだ
戦争が終わったあとも配給制度は続いていて、成人1人当たり1日300グラムほどの米が配給されていた。ところが昭和20(1945)年は凶作で、配給量だけでも足りないのに加えて、貯蓄米もなく配給そのものが…
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戦争の傷は子や孫に影を落とし続けた
戦争は終わった。さて平穏な日々が戻ってきた。人々は終わった翌日から衣食住満ち足りた生活に入った──と思ったら大間違いである。太平洋戦争を国力の限界を超えるほどの段階まで戦った結果が、戦後に全ての面に…
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近代史の天皇から現代史の天皇へ
全国巡幸の総括のようになるのだが、この試みは近代史が現代史に移行していく象徴的な意味を持った。近代史の最終段階(それはとりも直さず太平洋戦争の段階を指すのだが)では、現人神の段階にまで高められるのだ…
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「東京裁判に国民が共鳴したから天皇巡幸は盛り上がりを見せた」
全国巡幸に関わるエピソードをもう少し語っておきたい。この巡幸は2つの意思が衝突していたというのが真実である。1つはGHQ(連合国軍総司令部)のGS(民政局)の将校を中心に、天皇は本当に国民の信頼を集…
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人間宣言ではなく終戦詔書に平和論の原点を読む
今回も京大学生自治会(同学会)が、天皇に手渡そうとした公開質問状を説明しているわけだが、質問状の第5項はなかなか興味深い。その部分を公開質問状から引用しておこう。 「広島、長崎の原爆の悲惨は、…
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「人間天皇に訴う」、注目すべき京大生の公開質問状
全国巡幸の折に、京大に赴いた昭和天皇に、学生自治会(同学会)が公開質問状を手渡したいと申し出たが、大学側はそれを拒否している。当時の新聞などを読むと、学生たちは巡幸当日(昭和26=1951=年11月…
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巡幸した天皇に質問状を渡そうとした京大生
全国巡幸の中で、極めて政治的な意味合いが強かったケースも語っておかなければならない。どの地でも天皇が歓迎され、相応に日本社会の新しい象徴となるべき存在だと認められたわけではない。むろん天皇制反対の声…
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日本人にとって天皇制の姿をまざまざと見たGHQ
天皇の全国巡幸時のエピソードをさらに見ていきたい。これは神奈川巡幸になるのだが、久里浜の引き揚げ者共同住宅でのことであったが、たまたま天皇は南方要域からの帰還の下士官や若手将校の一団の部屋に入った。…
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天皇全国巡幸では関係者の検便までがなされていた
全国巡幸は、昭和21(1946)年2月の神奈川巡幸を試験的に試み、それによって幾つかの暗黙の了解がつくられて、そして全国巡幸になった。昭和29(1954)年8月の北海道巡幸までのおよそ8年間に、昭和…